三沢基地三内丸山遺跡の旅ラスト

201007
「三沢、三内丸山遺跡思いつき旅 三日目最終日」

#三内丸山遺跡は四天王で最弱

 

三内丸山遺跡が、平成に発見された時、縄文時代の常識を根底からひっくり返したことに、歴史好きは心震えたに違いない。

日本最大の縄文遺跡が、本州最北端の青森で見つかったのもそうだが、クリやクルミの原始農業とでもいうべきものも確認されたからだ。

 

だが今回初めて知った、まだ明らかにされていない事実に、一歴史ファンとして、三内丸山遺跡発見時の衝撃よりもロマンを禁じ得なかった。

もったいぶるのも何なので、その事実を述べよう。それは、まだ発掘調査中の縄文時代遺跡が他にも三つあり、それぞれ三つ全ての推定遺跡規模が、日本最大と思われた三内丸山遺跡はるかに上回るという事実である。

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仮に、縄文時代遺跡四天王を設定すると、常識を覆す規模の大きさで度肝を抜いたはずの三内丸山遺跡が、実は四天王の中で最弱の立ち位置となってしまうのだ。

これは歴史好きとしては、如何にも燃える設定である。ロマン汁を禁じ得ない。縄文のポテンシャルは、三内丸山遺跡ですら、語り尽くせないシロモノなのだ。


「世界史における縄文時代
#世界史における縄文時代

自分も、教科書で習った縄文観が、三内丸山遺跡を知ることでガラガラと音を立てて崩れ落ちてはいたのだが、そのロマンと共に、新たな日本人観も生まれてきた。

縄文時代の日本人は、原始人でイメージされるような存在とは、どうやら根本的に違っていたのだ。


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そもそも、一万年以上続いた縄文時代を世界史の年表に重ねてみると、メソポタミアや長江で農耕が始まったのが縄文時代早期(前期の前)。


クフ王のピラミッド建設が縄文時代中期。ツタンカーメン王即位が縄文時代後期。中華春秋戦国時代でようやく縄文時代晩期となる。


要するに、世界史の発展と比較して、とんでもなく長い時間、日本人は縄文時代を続けていた訳だ。


中華春秋戦国時代、つまり漫画のキングダムの時代でも、部分によってはまだ日本は縄文時代だったのは驚く他ない。


縄文時代の特異性」
#縄文時代の特異性

考察してみると、主に二つの要素で、その特異性が浮かび上がってくる。一つめは、まずその一万年以上という超ロングスパンそのもので、日本特有のガラパゴス的繁栄を続けながら、文字すらない、文明と呼べるものに発展しなかった特異性。

 

二つめは、戦争を知らなかった日本人(縄文人を日本人の先祖として)という特異性である。

世界中で金属器の発明により文明が興隆し、それに伴って“戦争”という、人類の歴史とは切っても切れない業としか呼べないものが世界を席巻していった。


そんな中でも、縄文時代の日本人は、争いの形跡すら残っていない、平和で持続可能な社会を「日本全体」で享受していたのだ。

 

日本人が戦争を知るのは、稲作と金属が入ってきた弥生時代以降であり、それまで本当に長い間、日本人は自然の恵みと、ガラパゴス的隔絶による平和のゆりかごの中にあった。

温厚で自然を愛する日本人特有の気質が、そうしてゆっくりゆっくり育まれていったのである。


また、その気質が、天皇制という、世界唯一の現代に続く長期統一王朝を存続させてもいる。


「いよいよ世界遺産申請!」
#世界遺産#北海道・北東北縄文遺跡群

さて、改めてそんな歴史の中での三内丸山遺跡である。いや、世界遺産申請直前の、北海道・北東北縄文遺跡群の方が正確だろう。


縄文時代人は、一ヶ所にずっと定住するのではなく、一定期間定住した後、おそらくは食糧の減少により、転々としていただろうことが分かっている。

また、気候変動により、地球寒冷化以降は三内丸山遺跡のような500人規模の大規模集落がなくなっている。

 

つまりは、交易圏を維持していた北海道・北東北縄文遺跡群の中を、食料を求めて移住しながら、緩やかにお互いの交流を維持していたのだろう。

それが、三内丸山遺跡をはじめとする多数の縄文遺跡が、北海道東部と北東北に存在する理由と考えられる。

 

以上が自分なりにつかんだ、現時点での三内丸山遺跡を含めての東北縄文観になる。世界遺産になると、さらに発掘や研究も進むので、まだまだ変わっていってしまうかもしれない。

が、それもまた楽しみなことであるし、さしあたっては、初めての三内丸山遺跡フィールドワークを心から満喫してこよう。

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「一夜漬けの下調べもしたし、いざ出発」
#いよいよ三内丸山遺跡

ホテルで朝ごはんを済ませ、三内丸山遺跡に行くレンタサイクルを借りにフロントへ下りる。

このホテルサンルート青森は、青森市のレンタサイクル事業の支所になっているのだ。一日300円と格安で借りれ、五キロくらいの三内丸山遺跡への移動にはもってこいである(片道8kmチャリ通勤なので、これくらいはへっちゃら)。しかも今日は快晴!

 

しかし、これだけ好条件で逆フラグが立ってしまったのか、「すいません、コロナ以降レンタサイクルの貸し出しは行っておりません」とホテルマンのつれない返事。


き、聞いてないよ~(*っ´Д)っ

と心の中で叫ぶが、無いものはない。代わりの交通機関を訊いてみると、公共の観光循環バス「ねぶたん号」が三内丸山遺跡まで走っているそう。一回乗車が300円。
ちょうど乗れそうな時間だったので、近くの観光施設アスパムまで歩いていく。

バスは新青森駅までぐるっと周り、思ったより時間が掛かったが、三内丸山遺跡へ到着。


三内丸山遺跡到着」
#ゆるキャラ#縄文ゆるキャラ#ペッカリー#縄文テディベア

入場券を買って、例のごとく検温して入る。まずは館内施設を軽く見学することに。工房もあって、工作体験もできる様子。


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そしてさっそく縄文埴輪のお出迎え。こ、このユルさがタマラン。縄文ゆるキャラオンパレードやぁ~。


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「最強ゆるキャラ ペッカリー君」

#ゆるキャラ#ペッカリー

ゆるキャラといえば、世界最古、そして至高のゆるキャラともいわれるイノシン埴輪のペッカリー君が、地元岡山の中南米博物館の名物マスコットとして、一部で有名である。

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上が本物で、三千年前のエクアドルの遺跡から発掘されたのだが、小学生のイタズラでも、もう少しマシな造形になりそうなもんである。ちょっと高田純次入ってるし。

しかし、三千年の重みが失笑を芸術にまで高めているのだ。悠久の刻を越えてもたらされる笑い。笑いの刺客三千年。実に尊い

そして、縄文時代の埴輪はそれに匹敵するか、さらに時代をさかのぼる可能性がある。何しろ一万年も続いていたのだから。


それにしても、ペッカリー君の与える脱力感もソートーなものだが、日本の埴輪たちも負けてはいない。見てると、頬がゆるんでくる。


ここ三内丸山遺跡で一番有名な埴輪は、照明の当て具合もあってちょっと怖いが、

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秋田県で見つかったこの子は実に秀逸なデザインだと思う。ペッカリー君に引けを取らない破壊力。さすがご先祖さまッ。

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売店みたいのもあった。縄文のテディベア?日本人のご先祖さまは、やはりKawaiiを分かっていらっしゃる。ちと高いが。。

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が、売店で一つ許せないものを発見。あの有名な遮光器土偶をモチーフにしたメガネ。

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目の付け所は悪くない。しかし、コルクで作ったペラペラの安物が2400円というボッタクリ価格なのは、完全に便乗商法と言わざるを得ない。

 

近ごろ、縄文時代がアツイそうだが、こんなモノでインスタ映え~とか抜かすニワカファンがいた日には、日本人の精神的基盤に於ける、縄文時代の重要性について、一万年分説諭してやりたい。

 

。。ところだが、これも昨今のご時世だと、「縄文パワハラ(?)」にでもなるかもしれないので、縄文ジョークであるとあえて説明させて頂こう。

ふう、それにつけても、寒い時代と思わんか?

 


「無料ボランティアガイド」
#無料ボランティアガイド

無料のボランティアガイドがあるということなので、聞いてみることに。
すると、昼前でタイミングが良いのか悪いのか、参加者は自分一人だった。ガイドは人当たりの良いおばちゃんで、色々質問もできて良かった。


遺跡に入ると、社会科見学か修学旅行の小学生が多かった。しかし、一般客はまだまばらで、ゆっくり見て回れた。世界遺産になったら、こうはいかないはずだ。

 

三内丸山遺跡はディズニーランドとほぼ同じ大きさ」
#ディズニーランド

三内丸山遺跡は約40ヘクタールで、東京ドーム9個分。ディズニーランドかディズニーシーとほぼ同じ大きさと説明されるが、行ったことないので、いまいちピンとこない。まあ相当大きいのは確か(しかし、三内丸山遺跡で実際見て回れるのはごく一部)。

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「舗装もされていたメインストリート」

初めて知ったが、最大幅12mもある広いメインストリートは、粘土質の土で舗装されていて、その両側に等間隔で人が埋葬されていたそう。


ね、舗装なんてする原始人なんて聞いたことないし、馬車や荷車もなかったのに、幅12mもの道路とは。


現代の二車線の舗装道路が、両脇に余裕を持たせても8m、四車線道路で15mくらいなので、三内丸山遺跡に住んでいた縄文人が、歩くだけの道に、どれだけ余裕を持たせていたか驚く。


祭祀的にそれだけの広さが必要だったのかもしれないが、とにかく、彼らは思ったよりずっと高度な文化を築いていたに違いない。

 

それに、ごみ捨て場のように何メートルも堆積していた土器の中から、大変貴重だったヒスイの勾玉もいくつか見つかっている。
そんな大事なものをゴミと一緒に捨てるとは考えにくいし、ゴミはちゃんと貝塚のように他の場所にある。

 

さらに面白いことに、人型のプレート状の板状埴輪を、わざと割って分離し、別々の場所に移動させた形跡が多数あることから、何らかの宗教的な儀式があったことが想像される。


その他、子どもを埋葬する時だけ、丸い小石を一緒に入れていることからも、深い文化的な意味があったんじゃないだろうか。


「三匹の子ぶた?」

続いては木の皮、カヤ、カヤにさらに土を被せた縦穴式住居。これらは実際には残っていないので、何通りかで再現してみたものらしい。


手が込むに従って住居が立派になっていく感じで、アップグレードしていく三びきのこぶたの小屋みたいで面白い。

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この小屋には中に、おそらく制作に関わった小学生や学校とかの、名前の入った木のプレートがあった。


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その中に、何故か「でんま」とでかでかと書かれたプレートがあり、思わず「でんま?!」と、読んでしまったものだから、ボランティアのおばちゃんとビミョーに気まずい雰囲気となってしまった。。

 


三内丸山遺跡の食料事情
#縄文時代の食事#酒

三内丸山遺跡では、ごみ捨て場やトイレとしても使われた、貝塚に相当する場所があり、低湿地であったことから、数々の有機物がそのまま発掘されている。奇跡的に、ほぼ完全な形で見つかった縄文ポシェットも、そのおかげだ。

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さらに、出てきた残留物からして、どうやらエゾニワトコの実で酒を作っていたと考えられるのは、大きな発見といえる。

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エゾニワトコというのは、調べてみるとエルダーフラワーの一種だそうで、ハンガリーだかでは、その花から作る清涼飲料水がメジャーだそう。


2019年に、コカ・コーラ自動販売機オンリーで、ソカタという味のファンタが売っていたのがそれで、TBSラジオ「たま結び」で話題になっていたので飲んでみたが、うっすらライチのような甘い味で悪くはなかった。

 

まあ、縄文人は実の方を使っていたみたいだが、この実が食べてもおいしくない実ということで、酒を作っていた可能性が高いそうである。猿酒みたいなもんなのかな。

 

それから、三内丸山遺跡縄文人の主なタンパク源は、意外なことに魚貝類がメインだったということが分かっている。
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魚類ではサメ42%とブリ25%で、しかもブリの頭部の骨があまり見つからないことから、よそで獲られたブリが、運ばれてきた可能性があるそう。

そもそも、ブリなんかそんないっぱい獲れるものなのだろうか?これは見逃せないミステリーではないだろうか。

 

また、意外だったのが、発掘された動物の骨は少なかったことで、大型獣はさらに少なく、リスやムササビの骨が残っていたとのこと。

 

そして、縄文観を覆したといえる三内丸山遺跡の原始農業では、主として栗とクルミの木が集落の近くに植えられていた。遺伝子の系統から判明したとのこと。巨大な穴を掘って、それらの実を貯蔵していたらしい。

 

さらには一年草エゴマヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土している。かなりの食料を、農業を通じて得ていたのではないだろうか。

 

他には、さすがに痕跡は残されていないが、キノコ類も沢山食べられていたことだろう。

それらを、縄文土器で煮炊きして食べていたんだろうか。

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縄文土器は、今でいう低温調理器かも」

縄文土器は厚みがあって、熱の伝導効率は良くなかったろうし、グラグラ煮立たせるほど火も使わなかったはず。

しかし、その分じっくりと具材に火が通って、素材の味が生かされてきっと美味しかったろう。


料理の知恵として、しゃぶしゃぶなり、寄せ鍋を作る時は、煮立たせずに作ってみてもらえたら(できれば肉の凝固温度70度程度をキープするのが良い)、どれだけ素材がやわらかくて美味しくなるか分かってもらえると思う。

縄文人って、他にも巨大な鯛も食べてたそうだし、相当おいしいもの食ってたんだろうな~。


「謎の柱状遺跡と、巨大縦穴式住居」
#巨大縦穴式住居

さて、長々と三内丸山遺跡見学の感想を述べてきたが、いよいよ最後になる。
これまた、従来の縄文時代の常識を大きく覆した、巨大縦穴式住居と、謎の巨柱跡である。
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まずは巨大縦穴式住居から。これは縦穴式住居を大きくして、長ーく伸ばしたイメージで、正式には大型竪穴建物跡となっている。最大のもので、32m×10mにもなり、三百人も入れるキャパがある。
入ってみると、本当にキャッチボールができるほど広々としている。
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集会に使われた他、寒い冬には、大勢で一緒に住んでいたことも考えられるそう。

 

そして、未だに目的が解明されていない、謎の巨大柱遺跡。これも正式には大型掘立柱建物跡。
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直径2mにも及ぶ柱穴に、直径1mもの巨大な栗の柱の根元部分が残されているのが六本発掘された。地下水がたまっていたのと、柱がちゃんと焦がされていたので腐らず残っていた。
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柱穴は正確にそれぞれ4.2mの間隔を空けられていて、これは縄文尺によって測られたとのこと。縄文尺とは、当時の人のヒジから拳の先端まで約35cmと考えられていて、ひもを使って縄文人は正確に測っていたらしい。

ちなみに、4.2mは35cmのちょうど12倍となる。

 

この六本の巨大な柱跡は特に雄大で、近づくとやはり度肝を抜かれる。デカい!

現在は大手ゼネコンが、重機を使ってすぐそばに再現しているが、直径1mの巨大な栗の木ともなると、高さは15mにもなるそうだ。ふむふむ、ちょうどF91くらいってことか。ってガンダムファン以外ピンとこねー。
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それにしても、本当にどうやって立てたのか見当もつかない。運ぶのは枕木を使うか、修羅を使うとして(あったかは不明)、何トンにもなる巨柱を、しかも「正確に」立てるのは並の技術ではない。

 

佐賀県吉野ヶ里遺跡にも同じような巨大柱跡が再現されていたが、あっちは弥生時代だが、こっちはさらに古い縄文時代となる。

まあでも、どっちもまじパネーという、ミーハーな感想しか出てこない。

こんな巨大なもの、何のために造ったんだろうか?


一説には、北海道からやってくる舟への目印だったとかがあるそうだが、祭祀的な意味合いの方が大きかったのではないだろうか。これを目の当たりにすると、その大きさに圧倒されるしかないからだ。

また、発掘される遺物から、交易圏は北海道以北から、南ははるか長野県にも及ぶことが確認されている。


密接に結びついていた北海道はともかく、遠い長野県と頻繁に交流があったとは考えにくい。

しかし、天を突く高さの巨大柱の話を耳にしただけで、長野の縄文人が驚いたのは想像にかたくない。少しほほえましい。

 

「長野県にもまた行かねば」

ということで、実にダラダラと三沢、三内丸山遺跡の旅を語ってきたが、備忘録でもあるので勘弁してほしい。

ただ、縄文ファンに限らず、歴史好きであるなら、三内丸山遺跡は行ってみる価値は十二分にあると言える。

 

そして、縄文文化を考える上で、今まであまりマークしていなかった、長野県も次の目的地として浮上してきた。長野県方面も近年アツイらしいので、近い内に訪れてみたいものだ。蕎麦もうまいし♪

 


翌日、朝から弘前に行って元同僚と合流し、車を受け取ったあとはひたすら高速で埼玉へ帰った。本当は、盛岡でわんこそばチャレンジをしたかったので残念。
でも、途中のサービスエリアで食べた牛タンは、目の前で焼いたものだけに中々おいしかった。