キリギリスの矜持

自己“表現”と自己“実現”の違いとは


自分の本当にしたいことは何か?料理は好きだが、料理人としては一流にはなれなかった。

 


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一流になるには、四六時中そのことを考えられるほどの情熱、あるいはそれに値する対価が必要だろう。自分にはそれがなかった。


ニュージーランドに住んでいた時、一緒にレストランを始めようとした、元オーナーシェフの突然死は、色々と考えるキッカケを与えてくれた。

 


自己実現という言葉は好きではない。他人の評価をチラ見するようなフワフワした言葉ではなく、自分自身に手応えを感じたかった。

 

しかし、結局のところ、家族は得ても長続きはせず、その後もどの集団に属することもできないことを、さんざん実感しただけだった。


アリにはなれないし、凍えているもの同士では、温め合うことにも限界があった。

 


おそらく、軽い発達障害もあると思う。バランスが悪い人間だと自分でも思う。元引きこもりでもあるし。


海外という、自分が苦しんでいる“外側”の世界があることを若い時に知らなかったら、それこそとっくに死んでしまっていたかもしれない。


ニュージーランドから帰ってきた後、2017年にオランダへ下見に行ってみたのは、実のところ将来的な尊厳死も考えてのことだった。

 

 

 

自殺願望と希死念慮の違い


それは自殺願望とは少し違う。希死念慮には似ている。


よくある話だが、小学生の時にいじめられてから、耳の後ろでいつも、「お前は生きる価値のない人間だ」と死神にでも囁かれているような、自分に対する不信感みたいなのがあるのだ。

 


そんなこと実際には、誰にも言われたことはない。しかし、呪いのように、完全に振り切ることは出来ない。

 

 

 

ギフテッド


さて、突然話は変わるが、二年も同じ仕事をすると、何かしらの特殊な能力が身につくと経験上感じる。

 

大した能力ではない。肉に火が通るベストの瞬間とか、天ぷらが余熱で揚がるタイミングが分かるといった、ささいなことなものの、感覚がいつの間にか変容していることに、ふと気づく瞬間がある。

 

そしておそらく、そういった感覚は、大なり小なり、誰もが獲得していくものなんだろう。それは英語で言う、ギフトみたいなものなのかもしれない(。。と思ってたけど、英語のギフトは、どうやら生来持っている才能のことのようです)。

 

 

 

孤独のまま死んでいく人とは


介護の仕事をしていた時には、目の前の人が惜しまれて死んでいくのか、それとも孤独の内に死んでいくのかが分かるようになった。

 

人は、認知症になると、二つの人種に別れるが、その人自身が「むき出し」になる点は一緒である。 

 

ボケてもそれを受け入れて、持ち前のキャラクターそのもので周囲に愛される人は幸福だ。惜しまれながら、幸せに死んでいける。

 

一方、心に後悔や、わだかまりといった、「未処理の宿題」を抱えたまま認知症になった人は、一生それにとらわれながら生き、孤独の内に死んでいくことになる。たとえ家族に看取られたとしても。

 

それは見ていてつらかった。そして、自分に置き換えてみて、恐怖だった。

 

誰かを恨んだり、悔やんだりしながら、人生を終えるのだ。何より恐怖なのが、自分自身に対するグリップ感みたいなものさえ失ってしまうこと。

 

それは、まるで魂の牢獄のようでもあり、あるいは人生そのものに復讐されているようでもあった。

 

 

。。まあ、つまるところ、自分は後者の人間なので、できれば認知症になる前に自分の始末をつけたい。他人や家族に迷惑をかけることなく。

 

 


尊厳死の是非


しかし、尊厳死が認められているオランダやスイスでも、実際には死の病にかからないと尊厳死はできない。


それでも、いつかまたオランダに行ってみたい。人は結局一人で死ぬし、死ねるなら別にいつ死んだっていいと思う。痛いのは嫌だけど。

 

おそらく今世紀の早ければ中頃、地球が人口を支えれなくなった時、尊厳死は現実的な解決方法の一つとして検討されるだろう。

その時でも遅くはないが、何もなし得ないまま死んでいくことの方が怖いと思う。

 

 


アリとキリギリス


足りないのは、つまるところ“覚悟”みたいなものなんだろう。自分には、自分にできることしかできない。与えられるものしか与えれないし、核になるものを否定されても、変わることは出来なかった。

 

文章を書くことで正気を保ってきたような人間が、そこに価値がないことを咎められてもどうしようもないのだ。

 


そしてアリになるには、アリになる覚悟が必要で、自分はどこまでいってもキリギリスでしかなかった。

 

四十を過ぎて今さらそんなことに気づくのも何だが、むしろ早く気づけて良かったと思う。ローンやなんかで身動き取れなくなってからでは、そこに幸せを見つけれなければ、先に心が死んでいくだけだ。

 

疲れただけの大人には、なりたくはない。

 

そして別に、ただ遊び呆けるのがキリギリスというのとも違う。キリギリスだって生きるために仕事はしている。

 


そもそもキリギリスは、「自己表現(※自己実現ではなく)」を、その生涯を掛けてやっていただけだと思う。アリとキリギリスのどちらが偉いとかいう話ではない。


同じく、キリギリスの不幸も、他人の価値観で決めつけていいものではないはずだ。

 

そして、自分自身を嗤うことが出来るのは、動物と違う、最も人らしい行動の一つだろう。

 

 

自分を唯一駆り立てる(ドライブ)するもの


もう一つ幸運だったのが、本当にやりたいことが見つかったことである。ようやく気づいたと言うべきか。


何のプロにもなれなかった自分が、唯一ユニークでオンリーワンな存在になれたのが、小学生の頃から30年以上続いていたサバゲー(サバイバルゲーム)だったのだ。ニュージーランドではかなり有名なプレイヤーにもなれた。

 


サバゲーはオモチャの鉄砲で戦うことから、「戦争ごっこ」と日本では思われがちだが、世界中で一番競技人口が急増している、実は“日本発”のスポーツである。

 

海外では、チームビルディングスポーツとも捉えられていて、学校のレクリエーションや、職場のみんなで参加というのも珍しくない。


連係しないと勝てないなど、サッカーや野球のような「団体競技」の側面もあり、気軽にストレス発散にもなるので、武器といったものに偏見のない海外では広く受け入れられている。

 


また、サバゲーのもう一つの特徴として、「心理戦」いう側面もあり、これも実に奥が深い。

 

殺し合いの疑似体験という、ある意味究極の“非日常感”を味わうことになるからだ。武道の試合のようなものだ。これほどのスリルは、日常生活ではなかなか味わうことは出来ない。

 


そして、そういった非日常の極限状態だからこそ、普段とは全く違うことも起こるようになる。

 

たとえば、ある特定の状況では、自分が、たとえ相手の視界に入っていても、“視えなくなる”ということが起こる。

 



心理学的サバゲー戦術論日本語版仮 - 海外でサバゲをやってみた Ninja St☮g plays Airsoft in the world

 

それが今のところ、三十年以上という、人生でもっとも長く続けたことで得た能力になる。認知心理学の観点からだと、なかなか面白い論文が書けそうだが、実生活では全く役に立たない。


それでも、いつの間にか背後に回り込み、ナイフキルを重ねる戦い方から、ニンジャやスニーキーバスタードなどと畏怖されたのは、楽しい経験となっている。キリギリスとしては愉快な思い出だ。


まあ、知らない人からすると、それこそ「知らんけど」だが。

 

 

 

一万時間の法則


「一万時間の法則」のように、一流になるために投入した時間、それも没頭といえる時間のみがカウントされるなら、戦術について考察し、試行錯誤しながらそれを実行してきた時間は誰にも負けない。それで英語のも書いた。


今は、もっと海外で自分の戦術論を試して、さらに極限状況での心理学の知見を深めたいのが希望だ。一つ法則らしいものを見つける度に、この上ない充足感を得ることが出来る。

 

 

オランダでは苦労してナイフキルに成功した。木のまばらな真っ平らなフィールドで、複数の相手に気づかれずに背後に回り込む困難さを想像してみて欲しい。

15分以上かけて慎重に迂回し、タイミングをさらに待ってナイフキルを成功させ、オランダ人に驚かれた。

正直、料理人として料理をほめられたよりも嬉しかった。


それは、自分にしか出来ないことだからかもしれない。たとえ生産性のないことだとしても。

 

もちろん、それで食っていける訳ではない。だが、将来的に多くの仕事がAIに取って代わられると言われる中で、やれなかった後悔をその時になって感じたくないだけなのだ。幸いなことに、まだ身体は動く。

 

そして、「足ること」さえ出来れば、案外ささやかな幸せを大事にすることで生きていけるものだ。もともと物欲は少ないし。

 

 

ということで、とりあえず2020年のオリンピックまでは、東京をベースに日本や世界に遠征サバゲーしながら、変わってしまう前の日本や世界を自分の目でできるだけみておきたいと考えています。


巨大地震なんかが起こったら。。その時は最初にすんなり死ねた方が楽だろうな、きっと。富士山も噴火したら日本終わりだし。

 

まあキリギリスは所詮キリギリス。精一杯自己表現できたら悔いはありません。

 

 

 

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以上が、2018年に岡山から上京してきた時書いた、それまでの「棚卸し」みたいな文章になります。

 


つまるところ、自分の苦しみを両手でアチアチと持て余して、右往左往しているだけの人生でしかないようです。

自分を救えるのは、結局は自分自身でしかないのでしょう。

 

 

でも世界が変わってしまうと書いてましたが、まさかコロナでこんな世界になるとは思っていませんでした。

 


ただ、今はかつての大正時代に似ているとはずっと思っています。大変な時代が始まる前の、端境期みたいな平和で無風な時代。

当時の人は、きっと昭和に入って、戦争が激化していく最中に、フッと大正時代が良い時代だったのを思い出しただろうと思うんです。

 


そして、令和もあと何段階か変化があってから、平成が何だかんだ言って、まぶしいほどの時代だったと振り返るような気がします。

 


五年十年先どころか、来年すら分かりかねる時代ですが、ちょうど自分の原点を今再確認できたのは良かったです。


さて、オランダでは日本人だけは起業しやすいようですが、何をしましょうかね。