行田さきたま古墳群と忍城とゼリーフライ

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行田さきたま古墳群と忍城ゼリーフライ


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暑くなりつつある6月下旬、梅雨の晴れ間に埼玉県行田市にある、さきたま古墳群と忍城(おしじょう)へ行ってきた。

 

 

さて、転職先が見つかって一安心。八月からの勤務になるので、一ヶ月ちょいを行きたかった場所巡りに使うことに。

 

第一弾は、さきたま古墳群と忍城となった。

実は昨日、家を出るには出たのだが、28度の暑さをなめていて、途中で断念して引き返していた。

 

そして本日、朝雨で良い加減に気温が下がったのでリベンジとなった。

 


まずは腹ごしらえ

 

蕨駅まで自転車で向かい、京浜東北線で浦和まで行き、高崎線乗り換えで北へ向かう。


途中、鴻巣で降りて、以前の免許更新時(鴻巣には埼玉県免許センターがある)に見つけていた老舗うなぎ屋「柳家」でランチ。

 

 

街道時代からの老舗の柳家は、ひなびた佇まいながら、入ると年配のお客さんでほぼ満席で、検温してテーブル席につく。


ランチうな丼1250円は、老舗のうなぎ屋さんとしては破格に安い。来るまでどんなのかは分からないものの、老舗であるし、地域住民の人気からして、外れの確率はかなり低いと思われる。

 


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果たして、うなぎはやはり少し薄身なものの、立派なうな丼セットが登場。

 

さっそく箸をつける。老舗だけにおいしい。骨もなし。でもやっぱり蒸さずに焼く関西風の方が、うなぎのうまみがたっぷり残っているから好きかな~。タレも薄めで、骨から出るダシの風味もあまり感じなかった。江戸っ子や年配の人が好みそうな、上品な味とも言える。


しかし、ひなびた店でもランチでほぼ満席になるのは、地域に愛されている証拠。ながく続けていってほしいと思った。

 

 

ちなみに実家にいた時は、スーパーで生のさばいたうなぎやアナゴを買ってきて、そのまま囲炉裏で炭火で焼いて食べるのがサイコーのご馳走だった。


白焼きでも、タレ焼きでも、ブルンブルンの歯応えと、ほとばしる旨みを堪能できた。

 

焦げ目をしっかりつけるのが好みで、目の前の焼き立てを食べる醍醐味は、下手に上品な(?)鰻屋で食べるより満足度は高いと思う。ニュージーランドから友人が来た時も、これが一番ウケた。

 

 

 

 

ひとり旅御用達レンタサイクル

 

再び鴻巣駅から電車に乗り、数駅で行田駅着。東口出てすぐの観光案内所でレンタサイクルを一日五百円で借りる。

 

他にもクロスバイクや電動自転車も割り増しで借りれたが、ママチャリだと16時までの返却の義務はないのが大きなメリット。

返す時は、観光案内所そばの駐輪場に停めて、鍵をボックスに入れるだけでいい。助かる。


一人だと、気ままなレンタサイクル旅は、時間にも縛られずちょうど良いのだ。あまり地形に起伏がないことが大事だが。

 


チャリ通勤で往復16km毎日走っていたので、平らなら半径10kmまでなら片道一時間とみとけば余裕である。

 

 

さきたま古墳群までは、のんびり走って20分強。途中、一回だけの右折で着くので分かりやすい。ナビに使えるスマートウォッチが欲しいな~。

 


さきたま古墳群到着。まずは資料館で情報収集。

 

なるほど、さきたま古墳群は、大和朝廷の勢力下にあった集団が築いたもので、後の天皇の親衛隊長の地位にあった人の古墳もあるそう。

 

百年に一度と言われた、出土品の国宝の剣にそう記されているとのこと。

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埴輪のゆるキャラぶりに癒される


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絶妙にすっとぼけた表情の、埴輪の造形の面白さに心を奪われていると、いきなり国宝のショーケースの列が始まる。しかも数がかなり多い。

 


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興味深いのが、金属加工に必要だった、やっとこ(鉄製のペンチ)などの工具類が多く出土している点で、鉄器製造の工房もあったのだろう。


ピュリッツァー賞受賞の世界的名著「銃・病原菌・鉄」でも、人類の歴史を変えた鉄について詳述されているが、古墳時代にかけて日本にも普及した鉄は、大きな影響を日本に与えたに違いない。


おそらく、弥生時代の銅鐸文化は、鉄によって駆逐され、鉄の時代になっていったのだろう。

 

鎧や武器の変遷のパネルも実に興味深かった。


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勝手に考察シリーズ。「邪馬国はどこ?!」

 

話は逸れるが、邪馬台国の所在地論争は、現実的には決着はもうついていると思われる。


これまで、畿内説派と九州説派がケンケンガクガクの論争を繰り広げてきたが、“同時期”に栄えた大和朝廷畿内で勢力を伸ばしていったので、畿内説はまずあり得ないのである。二つは全く違う国家なのだ。

 


つまりは、教科書に載っていた国宝の金印が出土した九州でほぼ間違いはなく、残る謎は邪馬台国の直接的な遺構のありかに絞られる。

 

 

個人的には、規模の大きさからしても、吉野ヶ里遺跡でいんじゃないかな~と思うが、卑弥呼に繋がる確かな証拠もなく、時代が合ってるかも知らない。

 

ただ、渡来人や出雲の流れも汲むらしい、最初は弱小連合国家だった大和朝廷が、近畿中国地方、さらにはさきたま古墳群や朝鮮半島に至るまで、巨大古墳をせっせと拵えていったのに対し、意外なことに九州地方に大規模な古墳は、知っている限りでは一つもない。

 

久留米で街中にたまたま遺跡を見つけて見学したことがあるが、古墳というより、あぜ道に毛が生えた程度でしかなかった。墓でもなかったかもしれない。

 

 

考えられるとしたら、邪馬台国卑弥呼のネームバリューと、魏志倭人伝で記録されていることから日本史上での存在感はあるが、せいぜい地方勢力の一つでしかなかった可能性である。

 

惜しむらくは、銅鐸や古墳のような、権威を知らしめるような“装置”が、邪馬台国関連でのこされていないことだが、これも出土品に卑弥呼の文字が発見されでもしたら、お祭り騒ぎになることは確実である。


いずれにしろ、邪馬台国の場所が特定されたら、世紀の大発見になることは間違いない。

おそらく、映画や大河ドラマになったり邪馬台国展が開かれたり、世界遺産に認定される以上の盛り上がりをみせるだろう。今から楽しみである。


新たな新事実が発見されると、「勝手に考証シリーズ」でも検証していきたいと思う。

 

 

 

いよいよメインの古墳巡り


資料館は、国宝がズラリと展示されていて圧巻だった。


しかし、やはりメインは古墳である。


古代ロマンに触れるだけで、どんぶり飯三杯はイケる自分にとって、古墳が大小10個以上も群生しているなんて、コーフンすること甚だしい。…いや、何でもない。

 


地元岡山の造山(つくりやま)古墳も、日本四位と大きさでは負けていないが、ここまで密集してはいない。


一時期住んでいた南大阪の羽曳野市にも、巨大古墳は数あれど、隣接まではしていなかった。

 

そして、宮内庁管轄ではないので、自分で歩いて登れるのが、造山古墳やさきたま古墳群の素晴らしい点である。

 


ここ、さきたま古墳群は密集しているので、ちょうど良い散歩ルートとしても整備されているのだが、レンタサイクルで半時計回りで一気に廻る。


まだ雑草の伸びる時期なので、あまり草刈り等の整備はされていないが、こんもりとした古墳はやはり存在感がある。


さきたま古墳群の面白さは、数の多さももちろんだが、それぞれの形が前方後円墳から円墳、方墳などバラエティに富んでいることにもある。

 


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たしかに草ボーボー過ぎて、やや風情には欠けるが、兵(つわもの)どもの夢の跡と思えば、とてつもないエネルギーを注ぎ込まれて造られた古墳が、古代政治において果たした役割にも興味が湧いてくる。

 


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まず意外だったのは、このさきたま古墳群が、純粋な支配者の墓ではなかったことに尽きる。

国宝の剣にも明記されているように、大和朝廷の大王(後の天皇)に使えていた、親衛隊長の墓であったのだ。


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古墳年表からしても、大和朝廷の巨大古墳が近畿中国地方に現れて、一世紀から二世紀くらい遅れて、さきたま古墳群が造られたとある。

 


弱小連合国家であった大和朝廷が、全国的な支配権を確立していく過程で、後の雄略天皇になる大王の元親衛隊長だった将軍クラスの人物が、関東地方の鎮定で派遣されてきたと考えるのが自然だ(最新の研究では、大王が持ち回り制だった可能性も出てきている)。

 


であるならば、力を誇示するために、巨大な古墳を造ってみせるのは理にかなっているし、異例なほど密集させたのも、初見のインパクト狙いだった可能性もある。

 


実際、大きな古墳は、ナウシカに出てくる巨大な王蟲といった趣きがあり、存在感に圧倒される思いすらある。

 

ましてやそんな巨大建造物が、平らな関東平野で、遠目からでも分かるくらい密集して存在していれば、敵対勢力の度肝を抜いたであろうことも想像に難くない。

財力と人員の動員力を見せつけるのに、巨大建造物以上に分かりやすい例も無いだろう。

 


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ちなみに、さきたま古墳群で最大の丸墓山古墳は全高19mもあり、なんと7階建てくらいのビルに相当する。18mのガンダムよりでかいww。

 

まっ平らな平地でその高さは、かなり遠くからでも視認出来たはずである。やはり、現地に来ると実感できることは多々ある。


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丸墓山古墳にも登ってみたが、実に遠くまで視界が開け、数キロ先の忍城(おしじょう)も確認出来た。


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今回、さきたま古墳群にやってきた、二つ目の目的は、この瞬間に達成となった。

 

 


治部の小輔(じぶのしょう)

 

そう、ここ行田は歴史上において、二度もホットスポットとなっているのである。

 


一度目はさきたま古墳群で、埼玉県の県名の由来にもなっている。


そして二度目は織豊(しょくほう)時代、秀吉の天下平定の最後のピース、小田原城攻めにおける忍城の存在感である。

 


忍城攻略の全権指揮官となって、丸墓山古墳に本陣を敷いたのが、治部の小輔(じぶのしょう)。
当時は役職で呼ばれることの多かったその人物の名は石田三成

 


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丸墓山古墳の上から見る景色は、石田三成が見ていた景色そのものだったのだ。
ロマンだな~(・´ω`・)

 


石田三成忍城攻略に、秀吉の備中高松城水攻めの追従の意味もあって、同じ水攻めを選んだ。

 

備中松山城の堤防も度肝を抜かれたが、3km(300m説が最近の主流)の築堤で12日間とある。

 

 

忍城水攻めに、14kmもしくは28kmにも及ぶ堤防を、わずか五日で築いたというのは、ちょっと想像もつかないし、現実的ではないと思われる。

 

 

それはともかく、圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、結果的に水攻めは失敗となる。

 


そして、石田三成の最大の汚点となった他、秀吉が唯一攻略出来なかった城として、忍城は有名になったのである。

 


きっとそれを成し遂げた、源氏の流れをくむ坂東武士の意地が、その後江戸っ子の琴線に触れるところ大だったこともあるに違いない。

 

西日本出身者としては、忍城は馴染みが薄いというか、正直知らなかったが、太田道灌公のように、関東の人には特別な思いがあるのかもしれない。

 


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本陣のあった丸墓山古墳を降りると、桜並木の土手があり、看板には石田堤跡と書いてあった。


電車で数駅離れた、昼ごはんを食べた鴻巣市にも石田堤遺構があるそうなので、水攻めのスケールの大きさに改めて感心する。いや、マジでやったの?光成さん。

 


ロジスティックス(物流、兵站)の鬼であった石田三成だったからこそ、そんな国家事業的な大工事を、わずか五日で完成させることに成功した。平時であったなら、とてつもなく有能な人物であったに違いない。

 

 


石田三成は、どうもその神経質そうなキャラクターからあまり人気がないが、島左近を幕僚に加えた際、気前よく自分の持つ半分もの領地を与えたことからも、決してセコくて悪い領主ではなかったと思われる。

 


ただ、石田三成の実物の遺骨から復元した鑑識結果では、長い頭に反っ歯(そっぱ)、つまりは出っ歯であることが分かっていて、あまり人相は良くなかったのは確かなようだ。

 

 

 

のぼうの城

 

今回、行田市に来るにあたって、「のぼうの城」の原作と映画DVDで予習してきた。
映画の方は城のイメージ映像くらいの参考にしかならなかったが、原作は面白かった。

 


さきたま古墳群から自転車で10分少々で到着。きれいな水辺のある公園が途中にあり、市民が多数釣糸を垂らしていた。のどかな雰囲気が実に良い。

 


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忍城に隣接して、忍中学校がある。まるでナルトの忍術アカデミーみたいでクスッとした。

 


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忍城に着いたが、資料館は四時閉館だった。仕方なく忍城に入って行ってみるが、天守閣に見えたのは立派な櫓でしかなく、中は広場でしかなかった。

 


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それでもベンチに座り、しばし感慨にひたる。隣の市立忍中学校の喧騒がかすかに聞こえてくる。悪くない休日だ。


しかし蚊が寄ってきて、小腹も空いてきたので、最後に行田名物ゼリーフライとフライを食べに行くことに。

 

 

 

正統派B級グルメゼリーフライ


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事前にいくつかの店をピックアップはしていたのだが、一番地元民に人気がありそうな店は定休日だった。


なので、忍城に一番近い「かねつき堂」へ行ってみる。

 


中で注文し、外の座席で食べるシステム。ゼリーフライ二個で二百円。

プレーンなお好み焼きかフライは大小あり、卵入りや焼きそば入りを選び、さらにしょうゆ味かソース味かも指定する。卵入り小しょうゆ味四百円と、ゼリーフライ二個をテイクアウトで頼む。

 


店内は、芸能人のサインと、入り口にでっかい謎の写真のパネルがあった。

 

尺八を吹く虚無僧と、それをカメラで激写しているおばあちゃんのシュールな構図。かなり古いと思われ、セピア色のパネルで異彩を放っている。

 

まるでアイドルを鼓舞しながら撮影している、カリスマカメラマンのようで、なんか笑えた。だが、実に良い写真である。


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外のベンチに座っていると名前を呼ばれて取りに行く。受けとるとかなりズシリとしている。


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座って食べる。まずは味が薄いであろうフライから。見た目は折り畳んだ薄いお好み焼き風で、阪神百貨店の名物イカ焼きを巨大化したようなイメージ。

 

ただの小麦粉生地と思いきや、かなりモッチリとしている。玉子のほか、ほんの少しだけ鳥肉が入っている感じ。

 

 

今の基準だと、うまいともまずいとも言えない印象だが、戦前戦後にはご馳走なおやつだっただろう。

 


二口くらい食べて、次はゼリーフライゼリーフライは、おからを混ぜたコロッケの中身だけ揚げた感じで、それをソースにくぐらせてある。

 

味も、おからを混ぜたコロッケの中身を揚げたものを、水気の多いソースにくぐらせたとしか説明しようのない味。これも、うまくはないがまずくもないという、実にビミョーな感じ。

 


が、やはりこれは時代のせいもあるだろう。ゼリーフライやフライは、昭和初期に生まれているのである。食料事情が現代とは全く異なる。

 

ましてや、当時の地方都市で手に入る地場の安い食材で作られた、庶民のおやつとしての成り立ちからすれば、ほとんど変わらずに今も愛されるB級グルメであるのは、奇跡であるとも言える。

 


それだけ地元民に愛されるのには、必ず理由があるのが、B級グルメの奥深さであり、だからこそ実際に現地まで行って食べてみなければ、分からないことも多々あるのである。歴史フィールドワークをする真骨頂とも重なる。

 

 


さて、このゼリーフライとフライについての最終報告である。

 

出来立てで、空腹であったにもかかわらず、それぞれ二口ずつしか食べれなかった。テイクアウトにしたのは正解であった。

 

というのも、ゼリーフライとフライは、B級グルメでも最弱という噂は、第一次B級グルメフィーバーだった、2006年か2007年頃のB-1グランプリから耳にしていたからである。

 

ゼリーフライという、名前のインパクトに完全に負けているという風評だった。

 

それは実際食べてみて、半分正しかった。他のきらびやかなB級グルメに対し、味のインパクトも、キャラクターからしても、実に弱いのが否めない。

 


しかしどうだろう。帰って夜食にトースターで焼いて食べると、どちらも実に滋味深い味わいで、出来立てよりおいしく感じた。

 


と同時に、昭和初期の子どもたちが、どれだけ楽しみにフライやゼリーフライを食べていたかに思いを馳せると、現代人が豊かになるのと引き換えに失ってしまったものを考えさせられた。

 


際限ない欲望は、いつか身を滅ぼす。足ることを知れば、何てことないゼリーフライでもご馳走になる。一日の終わりにそんなことを思った。

 

 


さて、ずっと行きたかった行田は、実に魅力的な歴史が詰まっていた。

 

ドラマ「陸王」を観ていれば、足袋の歴史とかにも興味が向いたかもしれないが、未見の上、今回はさきたま古墳群と忍城でお腹いっぱいになった。

 


というか、情報量が多過ぎて、ほぼ書き終えてから、さきたま古墳群に埋葬された親衛隊長が仕えていたのが雄略天皇であるのに気づいて加筆訂正した。

 


雄略天皇の墳墓は、かつて住んでいた大阪府羽曳野市の家の徒歩圏内だったのだ。巨大な壕をたたえ、木が鬱蒼と繁った、指折りの大きさの前方後円墳だった。

 

高さは、さきたま古墳群の丸墓山古墳の方があるが、規模の大きさは雄略天皇の古墳の方がはるかにあったのを思い出す。

 

 

20年の時を経て、点と線が繋がったことに、今更ながらに鳥肌が立ちそうな思いにとらわれる。


これぞ歴史の醍醐味そのものである。バラバラだった断片から、系統図や因果関係が浮かび上がってきた時、教科書の知識でしかなかった歴史が、とたんに人の織り成すドラマとして生き生きと脈動し始めるのだ。

 

 

さて、今度はどこへ行こう。忍城へ行ったからには、小田原城も行かねばならないだろう。その際には秀吉の築いた一夜城もマストである。

 


城好き絶賛の犬山城にも行ってみたいし、長野県を始めとした各地にある縄文遺跡も忘れてはならない。いや、夏休みは恐竜イベントシーズンでもある。

 

いやいやいや、それを言ったら国立科学博物館とかもまだ行ったことはない。東京を起点とすると、行きたいところは山ほどあり、また交通の便も悪くないのがいい。

 


そして、さらにこうして文章に残すことで、牛が食物を反芻するように、何度も何度も考察し、楽しむことが出来る。


また、知識がアップデートすれば、既知の歴史を照らすライトの加減も変わるので、その度に発見があるのである。


時には知識を根底からくつがえされることもあるが、それすら心地よい。歴史とは実に味わい深い趣味の一つであると言えよう。

 

まあ、あわてず焦らず、少しずつ楽しんでいこうと思う。