古代史大ニュース続々: ねこ頭型土偶?

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https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20230110-OYT1I50148/

 

福島県郡山市の大安場史跡公園は、同市西田町の町B遺跡から出土した縄文時代の「ねこ頭形土製品」の愛称を2023年1/31まで募集中。

 

 

 

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https://mainichi.jp/articles/20230125/k00/00m/040/126000c

 

奈良市にある国内最大の円墳、富雄丸山古墳(4世紀後半、直径109メートル)の未盗掘の埋葬施設から、過去に類例のない盾形の銅鏡(長さ64センチ、幅約31センチ)と蛇行剣と呼ばれる鉄剣(東アジア最大全長237センチ、幅約6センチ)が出土。

 

 

いや〜、新年早々の大ニュースの数々に、古代史ファンとして居ても立っても居られず、ご報告させて頂こう。

 

まずは、「ねこ頭形土製品」から。発掘されたのは1999~2000年の発掘調査当時というので、これまでも報道があったとは思うが、日本にずっといなかったせいか自分は知らなかった。

もしかしたら他のデザインモチーフがあったのかも知れないが、自分としては日本人のヌコ好きルーツが、縄文時代まで遡れたことにしておこうと思う。

 

ちなみにこれまでの通説では、猫が日本にやってきたのは、奈良時代から平安時代の今から1200〜1300年前で、一説では中国から鑑真和尚と一緒に、経典をネズミの害から守るため、船に乗せられてやってきたとされていた。

しかし、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡でイエネコのものとされる骨が発掘されてから、弥生時代には日本人と猫の密接な関係があったことが濃厚となっているのである。

https://www.wargo.jp/column/cat_history/

となると、弥生時代とクロスオーバーしている年代が多い縄文時代にも、猫がいた可能性は必然的に高くなってくる。

というか、「ねこ頭形土製品」を作った縄文時代の造形師の意図を慮るに、漫画ネコネコ日本誌ではないが、日本人には猫好きのDNAがしっかりと受け継がれていると、今回の「勝手に考察シリーズ」の結論とさせて頂こう。というか、信じたい。

 

 

◯ 歴史の教科書が確実に変わる衝撃

 

そして、これまた大発見の、過去に類例のない四世紀後半の「盾形の銅鏡&東アジア最大全長237センチに及ぶ蛇行剣と呼ばれる鉄剣」である。

 

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世紀の大発見に、つい“すしざんまい”スタイルで会見する関係者。いや、銅鏡もとんでもなく凄い発見なのだが、2mを余裕で超える鉄剣というのも前代未聞で、当事者じゃなくとも大興奮を禁じ得ない。

これは長さだけなら、ガッツのドラゴンキラーを遥かに凌ぐ。

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「勝手に考察シリーズ」にとっても、これは実に興味深い発見でもある。

まず、銅鏡と鉄剣が同時に出土したのは珍しいのかどうかも初めて聞いたので分からないものの、政治の道具として大きな意味を持っていた“銅鏡”と、戦争の道具として、それ以前とそれ以後に明確に分けられるほど革命的だった“鉄”による巨大な剣は、権力の誇示としては大王クラスのものであるのは間違いないだろう。

 

うろ覚えの知識で申し訳ないのだが、銅“鐸”と銅“鏡”はそれぞれ出土分布域が異なっていて、出雲地方に多かった銅鐸に対して、銅鏡は九州地方での出土が主だった。

銅鏡は中国の皇帝からの大量の下賜により、九州の国や豪族に広まったと思われる。

 

どちらも祭祀での道具、ひいては政治の道具として、大きな力を持っていたが、それぞれの文化圏が奈良の大和地方で合一したというのが、今回の国宝級の出土の背景にあるのではないだろうか。

 

そう、地方の王や豪族を束ねていった大和の「大王(オオキミ、スメラミコト)」が、より日本の王としての権力を持つまでに至り、「天皇」へとなっていく転換期が、ちょうど明らかになりつつあるのが、今回の発見の歴史ロマン的醍醐味なのである。

 

 

◯ 点と線がつながってくると、突然面白くなる歴史ロマン

 

2021年夏に、さきたま古墳群にぼっち旅に行った時に知った、さきたま古墳群成立期と、今回の大発見が、わずか百年程度の時間の開きしかないことが、知識として繋がったのは大きい。

 

https://cheerio.hatenablog.com/entry/2021/08/04/%E8%A1%8C%E7%94%B0%E3%81%95%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E3%81%A8%E5%BF%8D%E5%9F%8E%E3%81%A8%E3%82%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4

 

 

つまり、さきたま古墳群の成立期が紀元後400年代つまり五世紀後期に始まり、そこに埋葬されていたのが、「大王」によって東征に派遣された「大将軍」クラスの人物とあったが、ちょうど今回発見の盾形の銅鏡&鉄剣の埋葬時期、四世紀後半の百年後くらいになる。

f:id:cheeriohappa:20230127084140p:image赤色が埼玉のさきたま古墳群成立期

 

さきたま古墳群を成立させた頃の「大王」は、後に「応神天皇」になる人物とさきたまの史料館で書かれていたと思うが、応神天皇皇紀は調べたら西暦270〜310年(三世紀後期から四世紀はじめ)となっているので、さきたま古墳群成立期(西暦400年台五世紀後期より)からは幾分ズレている。

 

応神天皇の次の仁徳天皇でも、西暦313〜399年(四世紀)なので、少し違うっぽい。

 

ややこしいので時代順にすると、

 

「15代応神天皇皇紀

西暦270〜310年(三世紀後期から四世紀はじめ)

「16代仁徳天皇皇紀

西暦313〜399年(四世紀)

「今回発見の盾形の銅鏡&鉄剣の埋葬時期」

四世紀後半

「さきたま古墳群成立期」

西暦400年代後半(五世紀後半)

 

ということになる。ちなみに、かつての「大王」が、後に「天皇」として、遡って呼称されるようになったのは、7世紀後半の奈良時代大宝律令からとされている。

 

 

。。つまり、どーゆーことってばよ?とゆーと、ズバリ

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ということになる。応神天皇とさきたま古墳群との関連性も薄れた上に、じゃあ盾形の銅鏡と巨大鉄剣と一緒に埋葬されたのは、一体誰なんだってことになるのだ。

 

しかし、今回の国宝級の大発見は、「大王」クラス、つまり「天皇」のものでほぼ間違いないだろう。

 

奇妙なのは、今回発掘された古墳は、とりたてて巨大でもなく、形も最も簡単な円墳なのだ。

となると、応神天皇仁徳天皇と巨大古墳を築いてから百年足らずの内に、墳墓が大幅にスケールダウンしていたとも取れるのである。

 

しかし、軒並み百歳以上生きたことになっている、応神天皇も含む当時の天皇の長寿っぷりや、古墳の築造におそらく最短でも数十年、下手すると百年掛かっていたと考えると、時系列としては無理がないことになるのかも知れない。

 

謎が謎を呼ぶ展開だが、これも歴史ロマンの味わい深さとも言える。

 

これまで、天皇クラスの古墳は宮内庁管轄ということもあり、発掘許可が下りなかったそうだが、今回の発見もあるので、今後は学術的な発掘研究が進んでいくのかもしれない。引き続き、追っていこうと思う。

 

 

◯  補足

 

どうも上記時系列が釈然としないと感じていたのだが、とんでもない勘違いをしていた可能性がある。

というのも、さきたま古墳公園史料館で撮った年代図を見ていて、15代応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の築造時期が400年台五世紀初頭、16代仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は五世紀中旬となっている。

つまり、今回大発見の富雄丸山遺跡の四世紀後半と、時期的にはほぼ同時代となってしまうのである。

 

さっきの簡易年表に補足すると、

 

「15代応神天皇皇紀

西暦270〜310年(三世紀後期から四世紀はじめ)

応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)五世紀初頭頃の築造

全長425mという墳丘長は大仙陵古墳に次ぐ日本第2位の大きさ

「16代仁徳天皇皇紀

西暦313〜399年(四世紀)

仁徳陵古墳(大仙陵古墳)五世紀中旬までに築造

全長525.1mで日本最大。体積では秦始皇帝陵を超える可能性もあり

「今回発見の盾形の銅鏡&鉄剣の埋葬時期」

富雄丸山古墳築造 四世紀後半

「さきたま古墳群成立期」

西暦400年代後半(五世紀後半)

 

 

これは各天皇陵とその築造年月を、逐一照らし合わせないとならないかもと思っていたら、同じ疑問を持った記者さんもやはり居たようで、実に興味深い解釈を書いてくれていた。

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20230206-OYT8T50015/

 

注目点はやはり気になっていた、天皇陵墓の様式が前方後円墳なのに対し、富雄丸山古墳は円墳である事実。しかも、直径109mというのは最大級の大きさらしい。

 

ということは、自分が思い込んでいた「大王、つまり天皇クラスの人の古墳」というのは間違いであり、少なくともさきたま古墳群に埋葬されているような、大将軍クラスのお墓の可能性が高い。

 

すごいのは、読売新聞の記者さんの考察がそれにとどまらず、“天皇ですら使われていない副葬品”の由来が、当時完全にはヤマト王権に恭順していなかった豪族だった可能性を指摘している、専門家の意見も載せている点である。

もっとも、もし盗掘されていない天皇陵の発掘研究が今後進めば、新たな大発見があるかもしれないが。

 

とにかくこれは初耳で、実に興味をそそられる。

日本統一国家というよりは、合衆国に近かった黎明期のヤマト王権が、獅子身中の虫のように、傑出した技術力と、それに伴う軍事力を有していた豪族を、同じ奈良の至近距離に抱えていたことになるのだ。

 

そして、力を持ったものは、その力を行使する誘惑にはあらがえないもので、ヤマト王権に反逆して滅ぼされ、ヤマト王権はさらなる力を得て、やがては日本のみならず、朝鮮半島の国造りにまで影響力を持つようになっていく。

 

さらに時代が下ると、朝鮮半島白村江の戦いで破れ、慌てて日本の防衛を強化したのが、岡山にも残る見事な山城「鬼ノ城」へと繋がっていくのだが、それに触れるのはまたの機会にしよう。

 

戦国時代にも劣らず、古代日本も歴史ロマンのカタマリであり、むしろ内戦ではない、国家間戦争というスケールの大きさは、日本も古代アジアにおける、重要なプレイヤーの一員だったのを感じれて、痺れるものがある。

 

 

 

邪馬台国大和朝廷の関係性

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ガンダムのレジェンド作者の一人、安彦良和先生の漫画「ヤマトタケル」をちょうど最近読み始めたところなのだが、先生も邪馬台国九州説なのを知ってとてもうれしい。

 

ただ、自分は「金印が博多の島で見つかったから、邪馬台国はそこら辺だったんじゃねーの?(鼻ほじ)」程度の浅い根拠だったのに対し、先生は文献も参考にしつつ、独自の解釈も丁寧にしてくれている。

 

なかでも驚きだったのが、『卑弥呼天照大神になったのでは』という仮説。「そ、そうだったのかーー!!!」と驚きを禁じ得ない。

いや、ケンミンショーどころの驚きでは足りない。やはり団塊ジュニア世代としてはこっちだろう。

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確かに、宮崎県に残る日本の神話の数々(天の岩戸伝説とか)は、その後の日本史における宮崎県の存在感の薄さに対して、意味不明なほど重みがあるのは、言われてみれば不思議でしかない。

 

それが、日本の神話における始祖神であり、絶対神のような存在である天照大神(あまてらすおおみかみ)が卑弥呼だったとするなら、伝説でしかないと思っていた日本神話と歴史が、きれいにリンクして、まるで大河ドラマのような歴史のうねりを感じるではないか。

 

つまり、日本古代史で大きな存在感のあった卑弥呼は、単なる地方豪族や地方国家だったのではなく、実際に日本中に轟くほど名を馳せていたのだろう。

 

その根拠としては、長野だけで採れる黒曜石だったか翡翠だったか(うろ覚え)が、遠くは北海道まで達していた、縄文時代の事実(これはホント)である。

現代人の想像を遥かに上回る、“流通”ネットワークが、縄文時代には既に日本に成立しており、それに伴っての“情報”ネットワークも発達していたに違いないのだ。

 

その古代日本(弥生時代まで)で隔絶した有名人だった卑弥呼の存在を、神話の形で取り込んだのが、大和朝廷が日本を統べるための根拠とした背景にあるのではないだろうか。

 

またこれも、知っている人には当たり前のことなのかも知れないが、邪馬台国ヤマト国とも読めるのである。

 

自分は、これがさも当然のように書かれている、安彦先生の「ヤマトタケル」のこのページを、思わず二度見してしまった。

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邪馬台国

ヤマト国

大和国

ポケモンの進化みたいなもん?

 

しかも当て字の「大和」自体が、言わば「大きく和する」と合流を示唆しているではないか。

そもそも日本人として、大和はヤマトと当然のように読んでいるが、冷静に考えてみると、大も和も、ヤマとトと読む言葉が他に思いつかない。

 

 

◯ 「大和」=キラキラネーム説

 

これを「勝手に考察」することにしよう。

邪馬台国と出雲の、二つの大きな流れを引き継ぐ形で成立したヤマト王権(後の大和朝廷)が、その自ら命名するに当たって採用したのが、邪馬台国の正式後継政権としての“ヤマト”という呼称と、それに“大和”という漢字を当てはめた発明だったのではないだろうか。

 

想像するに、おそらく当時の大和王権発足者たちにとって、この「大和」という言葉は、良い意味でのキラキラネームのようなものだったのではないだろうか。

 

現代よりずっと言霊の力を信じていた古代日本人が、ヤマトという言葉自体に大きな意味を感じ、初めての日本合衆国家を建設するに当たり、大和という漢字を採用したのだ。

現代日本人にとっても大和は、戦艦大和の存在もあり、特別な意味合いをそこに感じるが、古代日本人にとっても大和に感じたのは、初めて生まれた、日本人としての自覚みたいなものなのかも知れない。

 

そしてそれが、後の時代に聖徳太子が中国に送った書簡において、有名な「日の出ずる国の〜」の一文に繋がるのだから胸熱である。

それが中国の中華思想、つまり「チャイナアズナンバーワン」思想にとって、どれだけ非礼であり、上から目線に映ったか、想像したら愉快ですらある。

 

しかし、聖徳太子空気が読めなかった訳では当然なく、「中国の属国としての扱いから脱却する」強い意志をもって、戦争も辞さじという覚悟で叩きつけた、決別状だったのではないだろうか。

 

もちろんその背景には、「海があるから戦争になっても何とかなるだろう」という冷静な計算もあったはずだが、当時の日本人の気概は痛快であり、現代日本人が失くしてしまったものの大きさにも忸怩たる思いが込み上げてくる。

 

 

さて、最近の古代ニュースから、日本人の心のルーツが、ヤマトにあった話でした。