最近の“萌え”主流の風潮と、数だけは溢れかえるアニメについていけなくなり、ガンダム以外は自主的に観ることもほぼなくなってしまった。冒頭数話を観るのだけでも苦痛のアニメが多過ぎるのだ。もう歳か。。
「メイドイン アビス」が面白いと複数の友人たちが言っているので見始めた時も、実は1クール目最終話までそれほど面白いとは感じられなかった。
かわいらしいキャラも、“狙いすぎ”という嫌悪感がまず鼻についた。友のオススメでなければ、一話だけで断念したかもしれない。
というのも、自分がアニメに期待してしまうものが、近頃の若者の趣向といよいよ乖離してきたように感じられるのだ(まあ40過ぎてアニメがどーこー言うのもアレだが)
言わば、ハンドドリップコーヒーを好む派が、スタバに代表されるエスプレッソマシーン派に日陰ものにされているようなものである。
「古い」と一笑されようが、ハンドドリップのコーヒーは、エスプレッソマシンでは出せない繊細な味わいの世界がある。
気のせいではない。ハンドドリップコーヒーを淹れる時、最初に少量の湯を回しいれ、挽いたコーヒー豆が“膨らむ”のを待つ工程は、そもそも挽いた豆を“押し込んで”作るエスプレッソマシンにはなく、同じコーヒー豆でも味が違ってくるのは当然のことなのだ。エスプレッソマシンは濃く出るが、苦味も強い。
ハンドドリップでコーヒー豆が湯を入れると膨らむのは、炭酸ガスが抜けるからだそうで、そうすることで豆本来の味が出てくるとか。
これまで本当においしいと印象的だったコーヒーは、神戸の「西村珈琲」や、ザクバズーカ氏の母君が淹れてくれたものとか数えるくらいしかないが、いずれもハンドドリップコーヒーだった。
普段はミルクも砂糖も入れるお子さま舌なのに、その芳醇で繊細な「甘さ」すら感じるブラックコーヒーに驚かされ、何も入れずにただただ感心しながら飲んだものだ。
それ以来、自分の中では、“それ”がホンモノのコーヒーの味だという、ゆるぎない評価軸となっている。
他のことでも同じことが言え、たとえば映画にしろ、トッピング増し増しで観客を楽しませるハリウッド映画より、シナリオを主体とした総合芸術で深い味わいのあるミニシアター系のものが好みである。
別に「その違いが分かるボクちゃんエライ」と言っているのではない。そもそも求めるものの種類が違うのを言いたいのだ。
ハリウッド映画はさまざまな手法で、感情を「消費」させることで“息抜き”の気分転換を観客に提供してくれる。
それに対し、ミニシアター系映画は、主に骨格であるシナリオ勝負で、観客の深い部分を「耕す」ことで得られる、“新しい世界の見え方”で気分転換させてくれるのだ。
ひるがえってアニメについてである。1987年に上映された「オネアミスの翼」が最高のアニメであり映画でもあると今でも思う自分は、いわゆる「懐古厨」ということになるだろう。
否定はしない。というのも、このアニメ映画は、現代のアニメに対するアンチテーゼにもなっているからだ。
昨今の粗製乱造されるアニメの多くが、ごく短期間の納期のせいでクリエイターの仕事を浅いものにしている。なりゆきでラストが変わった某ヤクザガンダムは、その最たる一例と言えるだろう。
さらに海外のアニメ下請け会社に外注することは今に始まったことではないが、日本に本来あった技術が流出するのはまだいい方で、失われてしまったものも多いと聞く。
そうなのだ。今から30年前の作品の方が、ホンモノを作りたいがためだけにアメリカのヒューストン宇宙センターまで取材に行ったり、当時ほぼ国内だけで完結していたアニメ作りといい、作品に込められた“熱量”が圧倒的に異なるのである。
森本レオのモノローグで始まるオープニング。素っ気なく、しかし肝心のことである、主人公シロツグと宇宙軍の「箸にも棒にもかからない」感が語られる。そして、坂本龍一の音楽と、モノトーンで紡がれる「その地球」の歴史。
何度観ても飽きることのない、程よく力の抜けた、それでいて映画史にも残るだろう秀逸なオープニングと思う。
映画は半永久的に記録が残りやすい意味でも“究極の総合芸術”と言え、すべての要素が高水準でなければ、センセーショナルなものであっても、単に消費されて終わってしまうものだ。
しかし、小津安二郎監督の「永遠に通じるものは常に新しい」という言葉にあるように、「普遍性」を獲得した作品は、時代を超えて、観た人の心を揺さぶる力を獲得するのだと思う。
それに必要なものは何か?それはやはり「“人”というものがキチンと描かれているかどうか?」だと思う。
というか、理屈抜きにして、とってつけたりしてそこを誤魔化した作品は、すぐ鼻に付いてしまうものだ。
「オネアミスの翼」は奇跡も何も起こらない。貴種でもなく、穀潰しでしかなかったシロツグが、 奇跡の力も何もなく、最終的には大きなことを成し遂げる。
しかし、軽妙かつ丹念に登場人物たちの心の機微を辿っていくシナリオと、落ち着いたトーンの映像は、やがて深い味わいを観る人に与えてくれるようになる。
しかしそれは一見地味で、つまらないと感じてしまう人もいる、賛否が分かれる作品であるのも事実だ。
だが、いくらステーキがうまかろうと、日本食の滋味深いダシの効いた料理の世界も、他に確かに存在するのだ。
あるいはミョウガの良さを理解できるようになるには、大人の舌を持つ必要があるのと一緒である。
そういう意味では、とっつきにくいミニシアター系映画と一緒で、これは観る人を選ぶ作品であるとも言える。
余談だが「オネアミスの翼」は、30年経った今でも、戦争シーンではこれ以上ないクオリティの作品となっている。
庵野さん担当のシーンでは、ロケット打ち上げの場面が有名だが、この戦争シーンは彼が脇役になると、とてつもなくいい仕事をする一つの例だと思う。カメラワークといい、曳光弾のリアルさといい、「戦争シーン」では今後これ以上のクオリティの作画のアニメが作られることはないだろう。
しかし、ここまで「オネアミスの翼」がいかに傑作であるか述べてきたが、逆に反感を与えてしまったかもしれない。好きであるあまりに、人を引かせてしまうというのもよくあることだろう。
まあでも、誰しも特別な誰かや何かを心の宮殿に住まわせているものだし、自分の場合は「オネアミスの翼」がその一つで、初めて観た時の思いや感動に時々触れ直すことで、リフレッシュする大事な時間となっている。
さて、「オネアミスの翼」はそれくらいにして、いよいよ冒頭でも触れた「メイドイン アビス」について。
1期目最終話途中まで惰性で観ていたのは、この作品を要するに“エスプレッソマシン”で淹れたコーヒーと感じてしまったことにある。
部分部分では楽しんだり感心しながらも、例えば大原さやか演じる不動卿オーゼンも、単に話を盛り上げるために視聴者の心を揺さぶる、あざといトッピングの一種にしか、最初は感じられなかったのだ。
現に、「メイドインアビス」には、作者のセーヘキか出版社の意向か、意図的に「薄い本」を派生しやすいトッピングがふんだんに施されている。
そしてそれを感じるからこそ、この作品の世界に没入してしまうことができずにいた。
仮に萌えは今のアニメで人気を得るために必要不可欠な要素であるにしろ、萌えは「消費」されることでいくらでも形を変えるものであり、それを武器にした作品でまだ時代を超えるようなものに会ったことがないのもある。どれほど一世風靡しようと、萌えの「賞味期限」を過ぎると、急激に古さを感じるようになってしまうものだ。
が、ファーストシーズン最終話の、ナナチの涙でようやく心を鷲掴みにされた。これなのだ、本当に見たかったものは。予定調和のぬるま湯からようやく脱し、人の心のエグいまでの本質的なものが描かれる。
ミーティとナナチの過去。黎明卿の壊れっぷり。ナナチがレグたちを助けたのは、親切心からだけではない理由。それらあってのナナチの涙。ナナチがとても好きなキャラクターになりました。
それから6巻まで出ているマンガ単行本(アニメファーストシーズンは3巻までを映像化)を読み、「メイドインアビス」で描かれているのは一貫して“業”、つまり「なにかを得るために背負わされるもの」であることを確認。
「呪い」もそうだし、「ミーティの不死」もそう。そしてなれ果て村での「価値」のくだりでは、他人の価値を毀損してしまった対価を払わされるところがモロに描かれる。
また、底にあるのが異世界との扉か何かであるにせよ、現世と異界とのハザマであるこのたて穴は、日本伝統芸能の能でいう「あわい(あわひ)」の世界を描いているとも言える。
「あわい」とはまんま現世と異界(つまりあの世)とのハザマの空間であり、能では登場人物である、その間を行き来できる不思議なキャラクターが、能独特の幽玄な世界を演出している。
「メイドインアビス」も、この「あわい」感が絶妙に表現されていて、深くなるにつれて色濃くなる「あの世」感が、世界に奥行きを与えることに成功していると感じる。
何しろ、ピクニック調で始まった探窟が、深度が深まるのに比例して高まっていく、絶望感みたいなものに移り変わる、その空気の描写が絶妙なのだ。
それはまるで宇宙が軋んで回っているようなNASA公開の宇宙の音にも似て、深度の深い世界そのものに不思議な魅力を感じてしまうのである。
あるいは、最高のハンドドリップコーヒーが、ブラックコーヒーなのに満腔の満足感を与えてくれる小さな幸せのようで・・・。
とにかく、二期制作決定のニュースが待ち遠しいこの頃でした。あ〜!おれもナナチでモフモフくんかくんかして癒されたい〜〜_:(´ཀ`」 ∠︎):_