ソウルメイトになれる結婚とは

ある精神科医の先生の言葉がある。

「素晴らしいパートナーというのは、不満のない相手じゃない。 そんな人は、いない。

不満のない相手ではなく、『不満を伝えられる相手』が素晴らしいパートナー」

 


結婚において必要なのは、決して向き合うことではないと感じる。

というのも、向き合うからこそ、 相手の欠点とかが目についてしまうんじゃないかと思うのだ。


もちろん、向き合うことが大切なのも分かる。
でも、もっと大事なのは、同じ方向を向ける、ということではないだろうか。

 

 

そして、お互い尊敬し合えるかどうか。互いに興味を持ち続けれないと、それも難しくなってくるだろう。


良い部分だけ見るのではなく、互いの悪い部分を見ても尚、一緒に居たいと思えるか。


そして、些細なことでいつも笑っていられたら、 どんなに幸せなことだろう。

 

さらに、互いに提供できるものが等価交換できたら、関係性のひずみによるストレスも少ないと思われる。

 

 

 

今の外国人上司夫妻は、その理想に近い。旦那さんは、 その気になれば相当モテるはずだが、 後天的に障害を持つことになった奥さんを決して裏切るようなこともない。


二人が些細なことで冗談を言い合って、 心の底から笑い合っているのを、運転しながら後ろで感じ、 その絆の深さをいつもうらやましく思う。本当のソウルメイトとはそういうものなのだろう。

 


自分の結婚は、ごく短期間で終わってしまった。


理由はいくつか浮かんでくるが、最も大きかったのは、 ないものねだりを互いにしていたことだと思う。

そして、 最も大事だと考えていることに、お互い理解がなかった。

 


まず、ニュージーランドに居続けようとした自分と、 日本でのキャリアを継続しようとした元奥さんとでは、 同じ方向を向くにしても、根本からが違っていた。同じ景色を見ていても、 見えているものは全く異なっていたのだ。

 

 

当時作った自由律の句みたいなの。


「心に映る風景は 人それぞれで 道もまた」

 

並んで見た景色は同じだったはずなのに、それぞれ違うものを心に映し取っていた。

交差した直線がもう決して交わらないように、 いつの間にか歩む道も、それぞれ異なるものになってしまった寂しさ。

 

まあ、ここまで内容を説明しないと、 句の意味が伝わらない時点で、 自由律俳句としても失敗作なのだが、 当時の寄る辺ないような寂寞とした気持ちは、鮮明に思い出す。

 

凍えている二人が温め合おうとしても、奪い合うことしか出来ず、 挙げ句に互いを否定することになってしまった。


サバゲーが自分にとってどれだけ大きいものかも伝わらず禁止されることになったし、 ましてや文章を書く自分は必要とされもしなかった。
が、否定されることを恐れて、不満すら口に出来なかった。

 


そんな結婚が長続きするはずもなく、 娘が出来ていたにもかかわらず、 自分は結局日本にも帰らなかった。今考えても、 どうかしてると思う。無責任極まりない。


しかし、お天道さまに顔向けできるかは別として、 自分の人生を取り戻せたのは事実なのだ。


それは、いじめられっ子が、決死の覚悟で反抗した、 最初で最後の出来事でもあった。

 

 

娘のことを思い出さない日は一度もない。待ち受け画面の娘を見ては、あり得べきだった違う世界線を考えてみたりもする。


しかし、もうとっくの前に元奥さんは再婚してしまったし、他にどうすることも出来なかった痛みは、忘れることは出来ない。

 

報いとして、娘に一生憎まれることになるとしても、 その業はこれからずっと償っていかなければならないと思う 。

 

 

後悔からしか、人は本当には学べないものだとしても、それはそれで、貴重な学びとなっている。

 

少なくとも、誰もが持ちがちな、「恋に恋するような」初婚時の【結婚への幻想】は無くなった。

 

期待し過ぎるから、思惑が外れた時に相手を責めてしまうのだ。

しかしそれは、冒頭の『不満を伝えられる相手』が素晴らしいパートナー、というのとも違う気がする。

 

まずお互い、尊敬に基く信頼関係があってこそ、”違い”にもツッコミが成立するようになるのではないだろうか。

 

やはり、尊敬の前提としてある、「相手に興味を持ち続けれるか」が、大事だな〜と感じる。