漱石終焉の地で

漱石終焉の地で

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金曜日は仕事が早く終わるので、念願だった早稲田にある、漱石山房記念館をやっと訪れる。日本の文章を劇的に変えた、夏目漱石の終焉の地に建っている。

 


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国民作家とも呼ばれる夏目漱石の凄さは、書き言葉としての日本語が、しゃべり言葉と一致していく変遷期において、非常に大きな役割を果たした点にあると思われる。

 


個人的には、漱石が新聞連載の小説で、今の日本の書き言葉を形作り、定着させたと考えている。

 

 


今となっては言文一致、つまりしゃべり言葉と変わらない書き言葉というのは当たり前だが、江戸から明治にかけての変化は、現代人の想像を絶するものがあった。

 

 

 

 

しゃべり言葉と書き言葉は地続きではなかった

 

征服されて、言葉自体を変えられた国はいくらでもある。

 


しかし、書き言葉だけに限っていえば、ここまで短期間、かつ“自発的”に変えた国は、日本の他にないと思われる。

 


江戸時代は、今の日本人にはチンプンカンプンで、平仮名すら判読も困難な、くずした候文(そうろうぶん)が書き言葉として使われていた。

 

 

そして、さらに上の知識人では、漢文の読み書き詩作が当たり前の教養だったのだ。もちろん、漱石も漢文の高い素養があった。

 

 

 

それが明治維新により、文字通りイチから、つまり言葉の創作から日本語の大変革が始まることとなった。

 

 

 

しゃべり言葉はまだ良かった。方言ではない共通語が浸透していくのは並大抵のことではなかったが、江戸弁がベースとなる標準語が江戸期から次第に形成され、また落語や講談を通して、ロールモデルとして存在していたからだ。

 

 

 

なのでしゃべり言葉では、標準語と舶来の新日本語を受け入れていくくらいで、基本的には事足りたのだが、書き言葉ではそんなスンナリとは行かない理由が、日本特有の問題としてあった。

 

 

現代人の感覚では、「しゃべってることをそのまま書くだけだから簡単じゃね??」と思いがちである。

 

しかし、当時の日本人は、しゃべり言葉の延長線上にある、そういう書き言葉を使ったことがなく、従ってそういう回路自体を持っていなかったのである。

 

ここまでしゃべり言葉と書き言葉が乖離していた国も珍しいのではないだろうか。

 

 

明治初期の他の作家、森鴎外樋口一葉たちは候文を崩しながら、なんとかしゃべり言葉を書き言葉に変えていったが、かなり色濃く候文の影響も残っている。

 

 

文章を書くにあたって、知識人として「最低限の体裁」をととのえようという、プライドがあったからではないかと邪推したくもなってしまう。当時は小説は下俗なものとされていたからだ。

 

 

結果、過渡期の書き言葉が使われた文学としては、当時最先端のカルチャーとして、一時代を画したものの、フォーマットとしては現代に残らなかった。

 


翻って夏目漱石は、初作品となる「吾が輩はネコである」の冒頭からして、その呪縛がほとんど感じられない。

 

 

有名なその序文から。


「吾が輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたか頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している」

 

 

老若男女どころか、人種の壁まで余裕で乗り越える興味の引き方といい、どことなくユーモアが漂う期待の持たせ方といい、ツカミとしては完璧としか言いようがない。


それどころか、そこはかとなく感じさせる哀感まであり、だからこそ百年経っても日本人の誰もが知る文学作品であり、国民的作家となっている。

 


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若い頃の写真とのことだが、キャプションがないので誰が漱石かイマイチ不明w

 

 

漱石の創作のバックボーン二つとは

 

漱石のそうした創作の背骨になった要因はいくつか考えられるが、主に二つ、漱石ならではの大きな特徴がある。

 

 

一つはイギリス留学で、もう一つは正岡子規が親友であり、俳句の先生でもあった点である。

 

 

 

まずイギリス留学だが、これがドイツに留学した森鴎外と見事に対照的となっている。

 


当時の国費留学は、今の時代に宝くじに当選するよりも希少である。漱石は、約二年間イギリスで過ごした。

 


しかし、妻子を残してきたホームシックからか重度の神経衰弱(今でいう統合失調症か)となり、あまり外に出掛けることも出来なかった。

 

 

森鴎外も国費留学だったが、ドイツ人の娘が鴎外に入れ込んで騒ぎになるほどのリア充っぷりとは正反対である。

 

漱石は写真からして、当時でも相当なイケメンであったはずだが、特にこれといったモテエピソードがなく、イギリスでもモテなかった。

 


しかし、それが文学的な深化を彼にもたらしたのは、彼には不幸だったが、後世の日本人としては僥倖だった。

 

 

 

漱石村上春樹の共通点とガンダム

 

イギリス留学の二年間で、生活費を切り詰めてまで洋書を買い漁って文学研究したことで、漱石開明的な欧米文学を自分の血肉とすることが出来た。

 

 

同様に、村上春樹も洋書を読み漁り、また翻訳したことで、自分の文体が形づくられた趣旨の発言があり、興味深い共通点だろう。

 

 

この早稲田繋がりの二人の、文学上の共通点があるとするなら、共に人類共通の心の奥深くにある、普遍的な部分に触れ得ていることであると思う。

 

 

が、川端康成といった日本的な情緒が、まるで浮世絵が欧米で持て囃されるのと、同じ構図でノーベル賞を獲得したのと違い、あまりにも日本臭がない村上春樹は、いつまで経ってもノーベル賞がもらえない。

 

 

そして同じかどうかは分からないが、夏目漱石も国内の知名度に比べて、驚くほど海外(中韓ではそこそこ読者がいるらしいが)、特に欧米での認知度が低い。

 

 

このあたり、日本で主に男性層に、今だ絶対的といっていいコンテンツ人気を誇るガンダムが、アジア以外は知る人ぞ知るコンテンツでしかないことに、似ていると言えなくもない。

 

 

日本人かアジア人にしか分からない、心の機微か何かでもあるのだろうか。

 

 

 

漱石正岡子規の一番弟子説


もう一点の正岡子規の弟子同然だった点であるが、松山赴任時代から俳句の添削をしてもらい、二ヶ月近く同居していたこともある。

 

 

余談だが、根津神社近くには鴎外が住んだ後、漱石が住んだ家の跡があり、漱石はそこで「吾が輩は猫である」を執筆した。

 

 

今は小さな案内板しか残ってないが、見上げると塀の上を歩

猫の銅像?があって和む。

 

 

この鴎外、次いで漱石が住んだ家が、犬山市明治村に移設されているのを今知った。犬山城といい、是非とも行かねばならないだろう。

 

 

少し脱線した。

 
漱石はまた、司馬遼太郎坂の上の雲」で描かれていたように、谷中での晩年の正岡子規の句会に参加し、手ほどきも受けている。

 

 

漱石の活字デビューも、子規推薦により実現した、倫敦(ロンドン)便りの新聞掲載による。

 

 

 

俳句は、たった十二文字にすべてを凝縮させる、世界で最も短い文学であり、さらに徹底的な写実主義であった正岡子規に指導されたことで、漱石の言語センスは磨かれていったのだ。

 

 

このあたり、笑い飯に死ぬほど鍛えられて一流の芸人になった、千鳥の二人みたいで面白い。

 

あるいは、「自分は赤塚不二夫先生の作品である」と言って憚らないタモリのように、子規によって漱石自体が形作られた面も少なからずあったに違いない。

 


その他、漱石のバックボーンには、早稲田(漱石の祖父が名付けた夏目坂がある)生まれの生粋の江戸っ子であり、落語や講談が大好きだったこともあるが、やはり漱石漱石たらしめているのは、イギリス留学と正岡子規に負うところが大きい。

 

 

ちなみに、漱石作の俳句で、彼らしい人生観が反映された傑作も今回知り、さっそく竹製のしおりを購入した。

 

 

 

「すみれ程な 小さき人に 生まれたい」

 


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インフルエンサーとしての漱石

 

漱石の言葉には、現代人もドキッとするような箴言(しんげん)が多い。最も有名なのは、「知に動けば角が立つ。情に棹(さお)差せば流される。とかく人の世は住みにくい」だろう。

 

 

百年経っても変わらない、こういう人の機微をえぐったような言葉が、登場人物の何気ない会話でさらっと出てくるので唸らされる。

 

 

と思えば、今度は絶妙な諧謔心でクスりとさせられ、名人の落語でも見たような良質の笑いに、安心感のある満足も得られる。

 

 

これも人の業を切り取ったからこそ、古びれない普遍性を手に入れているからであり、百年経った今でも、日本人が作家としてまず浮かぶ筆頭が、夏目漱石ということにもなっている。伊達にお札になっている訳ではない。

 

 

 

現代でもそうなのだから、当然現役であった明治大正時代での影響力は、計り知れないものがあったはずである。

 


当時はマスメディアといえば新聞しかなく(ラジオ放送開始は大正時代末期)、現代のテレビ以上の圧倒的な影響力を誇っていた。

 

昭和にかけて、日本が無謀な戦争への道をひた走ったのも、朝日新聞をはじめとする、大新聞の扇動によるところが大きい。

 

 

そして、そんな朝日新聞で毎日連載小説が載っていた漱石は、低俗なものだった小説の面白さを国民に知らしめ、押しも押されもしないナンバーワン作家へと登り詰めていく。

 

まだ映画もラジオもない時代にあって、新たな文学である小説は、一流のエンターテイメントでもあったのだ。

 

 


その過程で、日常言葉を書き言葉に落とし込んでいく見本を示し続けたことは、単なる先駆者以上の歴史的役割まで持っていたのではないだろうか。

 

 

事実、今日に残る言葉のいくつかは、漱石が作品中で使ったために定着したものがいくつもある。

 

 

造語したと本人が明確に言っているのは「浪漫」だけだが、その他、「沢山」や「月並み」、「兎に角(とにかく)」などが現代に伝わっている。

 

 


しかし、漱石の本当の凄さとは、文学の歴史の上で取り上げられるだけの、“過去の”作家に、未だなっていない点にある。

 

 

「永遠に通じるものは常に新しい」とは、小津安次郎監督の至言であるが、現代でも切れ味が衰えていない漱石の文は、未来も新たな読者を得ていくに違いない。

 

 

 

私も国語の教科書に載っていた「こころ」で、漱石に出会い、こうして漱石山房までやって来るような、好きな作家の一人となっている。

 

 


また、今日初めて知って刺さったのが、次の言葉である。

 


硝子戸の中から」大正四年


「所詮(しょせん)我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。
ただどんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、仕合わせなんだろう。」

 


晩年の漱石の死生観が垣間見れる、貴重な言葉だろう。「ジョハリの窓」を思い起こさせる、自己像についての箴言である。

 

 

よく知られる「ジョハリの窓」では、

①「公開された自己=Open self」

②「自分は気づいてないが他人から見られている自己=Blind self」

③「自分は知っているが隠している自己=Hidden self」

④「誰も知らない自己=Unknown self」

 

の四つの窓状のパネルに自己認識が分かれているとされている。分布図みたいなものか。

 

その内、後半の他人に分かっていない「隠している自己」と「誰も知らない自己」が公開されていくと、自己開示の度合いが進み、オープンな人格に近づいていくとされている。

 

 

漱石の言葉は、そもそも、この一番知ることすら難しい「誰も知らない自己=Unknown self」についてのもので、確かにそれは爆裂弾になり得るのだ。特定の状況において。

 

 

それは例えば、認知症になった時に、心に押し込めて忘れていたはずの思いが表面化し、爆発するということ等であるが、漱石さんはそんな状況は別に指してはいないだろう。

 

 

ただ、「こころ」における先生のように、爆裂弾が“その時”になれば、己の存在を揺るがすことになるのを言っているのではないだろうか。深い。

 


f:id:cheeriohappa:20210924010028j:image漱石も好きだった空也最中が食べられるカフェ
f:id:cheeriohappa:20210924010041j:imageいつでも漱石の本が読めるフリースペース

 


漱石のユーモア精神

 

漱石のユーモア精神は、最初の小説の主人公にネコを選んだことにも明確に表れている。

 

 

また、そのモデルになった猫が死んだ時に、知人宛てに猫の葬式があったことをハガキで知らせているが、これも実に漱石らしい諧謔心も伝わってくる内容で、漱石山房記念館で、そのハガキの複製が売られている。

 

 


漱石は、神経衰弱になるほど繊細だった一方で、ささいなことにも可笑しみを感じられるユーモア精神のある人で、筆まめでもあったことから、手紙にもさらっとそういう面がにじみ出ている。

 

 

娘が熱が出て、一緒に寝たらさんざん蹴られて降参した。という内容の手紙が残っているのも微笑ましい。家族の近しい距離感も伝わってきて、うらやましく思う。

 

 

また、ペット想いの人物でもあり、九段の立派なペットの供養塔まで作らせ、歴代ペットをすべて丁重に葬っていたとのこと。

 


戦災で焼けてしまったが、その残滓から再生されて、この漱石山房記念館の裏庭に今も立っている。

 

 


余談だが、その近くの地面に漱石山房旧居跡の礎石がそのまま残っていて、今も見ることができる。

 


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漱石の独特の結婚観

 

そんなやさしさのある漱石だったが、こと結婚観については、不思議なこだわりのある人物であった。

 


そのエピソードの一つに、鏡子婦人とのお見合い直前に「写真と違っていたら、そのまま帰るまで」と高浜虚子に言っていることがある。

 

 

 

これは、漱石が奥さんが期待通りの人だったから結婚したと解釈されていたが、その“期待通り”というのは、必ずしも美人という意味ではなかったのである。

 

 

というのも、結婚前の松山時代から、「美人過ぎる人は結婚相手に向いていない」旨を書き綴っていて、以前松山の坊っちゃん湯の漱石の部屋でそれを読んで、とても意外に感じ印象に残っていたのだ。

 

 

ちなみに、「坊っちゃん」でマドンナのモデルになったとされる女性の写真もあって、現代基準でも一目で分かる美人だった。

 


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なので、「そのまま帰るまで」という言葉を正確に理解するなら、「(美人で)写真と違っていたら、そのまま帰るまで」の可能性が高い。正反対の意味となる。

 

 

 

また、女性が高い教育を受けるのは嫌っていたらしく、娘には小説も読ませなかったそう。

 

 

現代人に通じる、開明的でコスモポリタンな思想の漱石先生にあっては意外だが、女性が頭でっかちになるより、古風な女性にある種の理想を重ねていたのだろう。男尊女卑とは必ずしも言い切れない。

 

 

 

ちなみに、理想の女性像を友人と討論し、結果お互いの奥さんがそれとはずいぶんかけ離れていると笑い合ったエピソードも残っている。

 

これも解釈次第でどちらの意味とも取れるだろうが、なかなか面白いと言わざるを得ない。勲章を辞退する、少しひねくれたところもある漱石流のノロケかもしれないからだ。

 


漱石さん、そー言いつつも、四十も後半になって七人目の娘を奥さんとの間に儲けており、妾を囲うのが当然だった当時の人としては、夫婦仲は良好であったのは間違いないだろう。

 

有名な木曜会でも、漱石が亡くなった後に、鏡子婦人がホストとなっての集いが昭和に入るまで続けられていた。

 

 


そして、その可愛がっていた末娘を、わずか一歳で喪ったことが漱石の死を早めたことも、なんだかんだ家族想いだった夏目漱石が、身近に感じられる一因となっている。

 

 

 

また、漱石はちょいちょい絵を描いていたようで、色彩感覚に特徴があり結構本格的といえるものだが、こちらは文章ほどは達人ではなかった様子である。

 

 

それでも、娘が勝手に人にあげまくっていたら、激怒したエピソードがあるので、それなりに愛着があったか、あるいは恥ずかしく思ったりしたのだろうか。

 


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次は漱石聖地巡り終着点

 

 

漱石山房記念館には、漱石が指示して植えた芭蕉(英名ジャパニーズバナナ)と、トクサが新たに植えられ、漱石が好んで座っていたベランダからの景色が、今も偲ばれる。

 


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奥さんが漱石の好物のアイスクリームをよく作っていたそうだが、ベランダで涼みながら食べたりしたんだろうか。

 


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夕暮れの中、そんな余韻に浸りながら漱石山房記念館を後にした。

 

 

 


残る漱石聖地巡礼は、雑司ヶ谷霊園漱石のお墓くらいだろうか(調べたらイギリスで住んでいた家が残っていたらしい。熊本にも何か残っているかもだし、犬山市にも行かねば)。

 

以前、タクシーの勤務中で近くに行った時に、霊園の地図では確認していたが、まだ行ってはいない。

 

 

近くに、「カリー・ザ・ハードコア」という、ドイツシチューをベースにした今までにないカレー屋さんができていて、シュマルツという、ラードに香味野菜等を加えたドイツ独特の調味料がおいしいらしいので、これも行ってみたいと思う。

 

 

 

 

さて、まだコロナ緊急事態宣言中で、なかなか旅にも出られないが、都内のプチ散策もなかなか悪くないと思える日だった。なんだかんだで地下鉄四駅分は余裕で歩いたしー(∩´∀`)∩