#2021年F1面白い#ハミルトン嫌いな理由


レッドブル・ホンダ F1分析:フェルスタッペの輝きに賭けたタイヤ戦略 / F1アメリカGP 決勝 【 F1-Gate .com 】

 

今季一番の見応えあるレース。ハミルトンの悪運も潰えたか

 

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2021年のF1サーカスも、このアメリカグランプリを含めて残り六戦。

 

前戦トルコグランプリが終了した時点で、なんとかリードを保っているレッドブルホンダだったが、メルセデスは前戦でなんらかのデバイスを導入したこともあり、直線スピードが大幅にアップしている。

そして、このアメリカグランプリはメルセデス常勝のサーキットでもあり、メルセデスが圧倒的に優位との下馬評だった。

 

しかし、ふたを開けてみると、なんとレッドブル大健闘!

 

。。どころか、最後までもつれた予選では、二位のハミルトンを0.2秒以上引き離す完璧な走りで、フェルスタッペンがポールポジションを獲得♪

ラストラップまでトップだったレッドブルのペレスは、ハミルトンにわずかに及ばずに三番グリッド確定。思えば、この激しいポールポジション争いが、決勝のバッチバチのバトルを予感させてもいた。

 

 

そして決勝。日本時間で早朝四時スタート。わざわざ休みを取ってネットカフェで待機していたが、興奮しているのと、読んでいる「ヴィンランドサガ」が面白いせいで、仮眠もろくに取れなかった。

 

スタートでハミルトンに先行され、実に嫌な思いになったが、気が抜けたのか、いつの間にかうたた寝してしまい、ハッと起きるとまたフェルスタッペンがトップに返り咲いていた。

 

どうやらコース上で抜いた訳ではなく、アンダーカット(ピットインのタイミングで前に出ること)に成功した様子だったが、タイヤが八周分も新しいハミルトンは圧倒的なペースで詰めてくる。

 

この舞台裏で、どれほど凄まじいまでのマージンの少ない駆け引きが交わされていたのかを記事にしたのが、冒頭のリンクになる。実に読み応えがあります。

 

 

そして、最後の最後までハミルトンに追い上げられたものの、大人のドライビングを見せたフェルスタッペンの見事な勝利だった。この勝利はデカい。

 

 

 

これが二つめの分水嶺になるか?!

 

今年2021年は、ハミルトンがフェルスタッペンに引っかけて高速クラッシュさせたイギリスGPが、一つのターニングポイントだった。

 

アレで0ポイントに終わったフェルスタッペンに対し、10秒ストップのみという、ハナクソみたいなペナルティのみで勝利し、25点という大量得点をせしめたハミルトンが、前半戦の連敗をほとんどチャラにしたのだった。

 

その後も、マシンの改良は違反になる今季ルールにもかかわらず、謎の最高速アップや曲がるフロントウイングで速くなったメルセデス

 

 

なので、ラスト5戦で、不利と言われたアメリカGPを取れたことは、これも大きな分水嶺になる可能性が高い。

 

 

今年のハミルトンは、コースアウトしたら偶然セーフティカーが出て助けられたり、チームメイトのボッタスがライバル一掃カミカゼアタックしてくれたり、悪魔と契約したのか?と思えるくらいの悪運に助けられてきた。こんなに悪運使っていたら、来世はバッタにでもなるしかないくらい。

 

それがここに来て、アメリカGPラスト数周で、バックマーカー(周回遅れ)だったシューマッハの処理が、フェルスタッペンに有利に働いたことで、ハミルトンはオーバーテイクの射程距離に入ることが出来なかった。

 

7タイムスチャンピオンとしての人望なんか毛ほどもないが、ついに運までハミルトンを見放した瞬間だったかもしれない。

ハミルトンは残りのレースでも、パワーユニット交換によるグリッド降下ペナルティの可能性が高くなっているそう。

 

 

ハミルトンが嫌いな理由

 

ハミルトンはこれまでも聖人君子面しておきながら、負けたらすぐ言い訳したり、ライバルのルール違反をネチネチと示唆してみたりと、まったくもってSir.の称号にふさわしくない言動ばかりをくり返してきた。

 

BLM(黒人の命も大事だよ運動)をこじらせて、批判されるとすぐ差別問題を絡めたり、周りの者に反論させたりで、実に美しくない。

 

そのくせ自己顕示欲は人一倍あるから、他のF1ドライバーたちにBLMのお揃いのTシャツをレーシングスーツの上に着させるのに、自分はシレっと違うTシャツを羽織ったりしていた。

 

挙げ句に、イタリアGPのダブルリタイアで、ハミルトンにフェルスタッペンのリアタイヤが当たった件で、さんざんフェルスタッペンを非難して負傷も強調しておきながら、驚くことにその翌日にレッドカーペットを歩くためだけに、イタリアからニューヨークまで行っているのである(しかも、スカートみたいな衣装だったから、それも物議になっていた)。

 

 

いやいやいや、アンタがイギリスGPでフェルスタッペンを弾き飛ばした時、51GものGだったから下手したら死んでたかも知れないんだよ。去年F2で事故死したアントワーヌ・ユベールで81.8Gだから、故意でフェルスタッペンに引っ掛けていたとしたら殺人未遂だろう。

 

そして、他車の後輪に自車の前輪が接触したインシデントで、他車はリタイアで自分は何ともなくて利益を得た回数が異常に多いのがハミルトンなのである。

偶然にしてみたら、決定的な場面でソレが起こっているのが不自然なほど多い。そして、その決定的な場面は、ギリギリのところまでハミルトンが追い詰められた状況で起きている。

アルボンに抜かれるのが確実だった場面もそうだし、フェルスタッペンの時も、連敗続きで、「ホンダエンジン“は”速くなった」などと、言い訳とチートの暗示で、チャンピオンにふさわしくない言動しているさなかだった。

 

そして、ライバルを事故に追い込んでから優勝したイギリスGPでの、ハミルトンやメルセデスのあの異常なはしゃぎっぷりである。

それこそ、一言も無線でフェルスタッペンの容態を訊きもしなかった。ドクターヘリで搬送されたにもかかわらず。

 

なので、それよりずっと軽傷だったイタリアGPで、上に乗り上げたフェルスタッペンが、自分の状態を確認しなかったとハミルトンが責めるのは、お門違いも甚だしいのだ。

 

そもそも、フェルスタッペンは、ハミルトンがバックしようとしているのを確認しているので、ピンピンしているのは重々承知していた。

ハミルトンがフェルスタッペンを責めてみせるのは、自分が生存確認をしなかった後ろめたによる、防衛機制が大きいのではないだろうか。

 

何度も言うが、ハミルトンは負け出すととたんにヘタレになってブーブー言い出す。そのくせ、自分の才能にはまだまだ自負があるから、相手のアラ探ししか出来ない。

ラッセルがチームメイトになり引導を渡すと、今度は電撃引退して、ハリウッド俳優が本当はやりたかったことだったとか抜かすんじゃないかと、個人的には踏んでいる。

 

 

 

。。まあつらつらとハミルトンに対する恨みつらみを述べさせてもらったが、去年までのF1をつまらなくしていたのは、どんな汚い手を使っても勝とうとする、チャンピオンハミルトンのせいだったと自分は考えている。

 

横綱相撲?笑わせるなである。メルセデスとハミルトンが去年までボロ勝ち出来ていたのは、今のレギュレーションに変わる前から、FIAとの癒着により、メルセデスが先行開発していたリードがあったからに他ならない。

 

そして、時にはエンジンパワーを抑えてまで三味線をひいて欺き、ハミルトンもオオカミ少年のように、言っていることとやっていることに一貫性がなかった。

 

しかし、今年は違う。ホンダは前倒しで開発を終わらせ、メルセデスに真っ向から立ち向かえるパワーユニットの投入に、ついに成功した。正式参戦としてはラストイヤーである、ホンダの意地だろう。

 

そして、それを駆る現役最速ドライバーであるフェルスタッペンも、いよいよ成熟度とカリスマ性が、あのアイルトン・セナに似てきている。

 

今年2021年のF1サーカスにおいて、鈴鹿でのレースが、政府当局の事なかれ主義で中止に追い込まれたのは、返すがえすも惜しかったが、今年こそはフェルスタッペンにドライバータイトルを獲得して欲しい。

 

思うに、ハミルトンがここまで悪役としてキャラが立ったのも、フェルスタッペン勝利によるカタルシスを、より大きくしてくれる為である気がしないでもない。

 

ということで、残り五戦はいよいよ目が離せないということで、来年に繰り越せない有給日を使い切ってでも、リアルタイムでホンダ勢とフェルスタッペンを応援したいと思う。

ヴィンランドサガがほぼ実話という証拠発見される


An Extraordinary 500-Year-Old Shipwreck Is Rewriting the History of the Age of Discovery | History | Smithsonian Magazine

#ヴィンランドサガ #バイキング

 

「いやいやいや、こいつぁー参ったね、ご隠居。またまた一大ニュースのご到来ですよ。

 

なんでもね、酢味噌会報だか、茄子味噌会報だかあったでしょ?

 

そう、その酢味噌にあんころ餅。え?違う?スミソニアン博物館??

 

まぁなんだっていいやね。そのスミソなんとか博物館の酢味噌会報から、バイキングの戦船(いくさぶね)が発見されたって号外だよ!」

 

 

。。長いタイトルになってしまったが、八っつぁんも浮き足立つようなロマンは感じてもらえただろうか。

 

「訂正。

早とちりでバイキングの船と思い込んでましたが、バイキングの直接の子孫にせよ、歴史上ではバイキングは9~11世紀に掛けて活動したことになっているので、厳密には間違っていました。申し訳ない(*っ´Д)っ」

 

潜水海洋調査により、五百年前のバイキングの歴史上の出来事が、実際にあったことだと証明されたのである。

 

1400年代後半といえば、日本も戦国時代真っ只中。

 

当時、ヨーロッパではバイキングが暴れまわり、恐怖と共に、北ヨーロッパを人種的にも文化的にも混交していく一大要因となっていた。

 

今でもスカンジナビアからイギリスにかけての白人男性の根底には、ローマ人のルーツより、バイキング由来の精神性に誇りを持っている気配が濃厚にある。

冒険心をくすぐるのだろうか、海外ドラマなどでもよく取り上げられる。

 

個人的な交友の範囲では、ニュージーランドで会った、スコットランド系のサバゲープレイヤーたちは、戦闘民族であったハイランダーの血、さらには先祖であるバイキングの血が流れていることに、大なり小なりプライドを持っていた。

 

 

が、バイキングの歴史はあまり文章としては残っていなく、叙事詩北欧神話などの言い伝えで語り継がれてきた。

 

なので、「ヴィンランドサガ」で主人公トルフィンが夢見る新天地も、文書としての記録には残っていなかった。

 

 

が、北アメリカにバイキングのご先祖が、コロンブスより早く到達していた痕跡が残っているのは、現代では広く知られてはいた。

 

 

そしてこの度、その痕跡から、さらに驚く新情報がもたらされた。

 

なんと、北アメリカにバイキングが移り住んだのが、西暦何年かまで特定されたというのだ。

 

 

https://www.zmescience.com/?p=205450

 

西暦1021年にカナダのニューファンドランド島にバイキングが定住していたことが特定される証拠発見。

 

 

ニューファンドランド島の沼から発見された木片から、金属加工の痕跡が見つかり、インディアンといった先住民族は金属の加工技術を持っていなかったので、バイキングがその年には入植していたのである。

 

何故そんな精確に年代、それどころか、どの年に起こったかまで特定できるかというと、これがスゴい。

 

まず、世界中の当時の木の年輪に、西暦993年に太陽フレアかで宇宙線、つまり宇宙放射線が大きくなった痕跡が残っていることが、年輪年代学では判明しているそう。

 

そして、この沼から発見された木片をカーボン同位体なんちゃら鑑定したところ、今からちょうど千年前の1021年(!)に切られた(そこで成長が止まった)木であることが分かったというのだ(驚!)

 

 

これは八っつぁん熊さんならずとも大ニュースである。

 

ちょうど千年前に切り倒された木が、コロンブスアメリカを発見した(いよーくにが見えるよの1492年)より五百年近くも前に、アメリカに到達していたバイキングのご先祖さまの仕業だったとは!

それがいつだったかまでなんか、お釈迦様でも分かるめぇってのが、分かっちゃったのだ。

 

 

が、それより、このこんがらがりそうな二つのニュースを通して、大きく実感できたことがあった。

 

それは、バイキングの活動していた期間が千年以上前から、少なくとも五百年オーバーにわたっていたこと(子孫もバリバリの戦闘民族だったにせよ、これは間違い)。

 

そして、大航海時代真っ只中にも、バイキングは戦に明け暮れていたということ(相変わらず戦争ばっかりしていた子孫だが、もうバイキングではない)。

 

さらに最大のミステリーが、千年前に北アメリカまで到達していたバイキングが、短期間で入植をあきらめた謎(これは正真正銘の世紀の謎)。

 

 

世界史はちゃんと習ったことがなかったので、バイキングと大航海時代が一緒の時代に存在していたことがあったとは、サッパリ知らなかった(※いや、間違いでした)。

 

大航海時代といえば、イギリスが裏で糸を引いていた海賊が、幅をきかせていたと思っていたが、まさかバイキングも現役だったとは(※ごめんなさい間違ってます)。

 

これは大変興味深い事実であり、バイキングが世界史に及ぼした影響についても、がぜん興味が湧いてきた。

歴史上屈指の戦闘民族の一つであるバイキング。「勝手に考察シリーズ」で語れるほどの自分なりの見解が得られたら、そのうちエントリにしてみようと思う。

 

てかまだ読んでる途中の「ヴィンランドサガ」をとりあえずネットカフェ行って全巻読んでみよう。

月曜日は休みを取ったので、早朝に放送されるF1アメリカグランプリも、ついでに心置きなく観戦できるのだ。楽しみ~(∩´∀`)∩

 

 

P.S.

数日後に時事通信社でも記事になっていて、とても分かりやすいので載せておきます。

C14濃度の急上昇をタイムマーカーにするという方法は、名古屋大学の三宅芙沙准教授が発見したそうです。素晴らしい!

https://news.yahoo.co.jp/articles/f9a5b1c42e83a234be2761cb33c7acd8aed8db1b

 

 

P.P.S.

訂正のお知らせ。

 

ネカフェで途中だった「ヴィンランドサガ」13巻を飲み始めて、年代が入っていたことに今更ながら気づきました。

西暦1018年10月に、農奴となったトルフィン(第二期?)の元へ、冷酷な王となったクヌートが攻め込んで来ています(余談ですが、成長したクヌートが、F1屈指のイケメンドライバーのガスリーにソックリ!!)。

 

。。ということは、こっこっこれわですよ!1021年にカナダのニューファンドランド島で木を斬り倒したバイキングって、トルフィンだったカモってロマンが成り立つかもしれないんですよ!!

 

いや、もちろん、フィクションと事実の区別はついてますよ。

でもね、夢があるじゃないですか。この「ヴィンランドサガ」という珠玉の叙事詩が、現代とリンクしていて、しかも丸きりのフィクションとも否定されない、なんとゆーか血の通っている感じが。歴史を学ぶ浪漫そのものだと思いますよ。

 

やはり歴史考証のしっかりしている作品は、マンガといえども勉強になるな~。よしんば間違っていたとしても、教科書では味わえない歴史の醍醐味を感じれるだけで、すごく得した気持ちになれますよね。

 

さて、続き読もうっと。

 

 

P.P.P.S.

いや~、2021年のF1は面白い。ついにメルセデス一強に、互角の勝負に挑めるまでにレッドブルホンダは力をつけてきた。

そして、このアメリカグランプリでは、メルセデス圧倒的優位の下馬評をくつがえす、フェルスタッペンのポール、そして優勝。

最後の最後までハミルトンに追い上げられたものの、見事な勝利だった。この勝利はデカい。

 

とと、違う。「ヴィンランドサガ」についてだった。仮眠時間を削って13~25巻まで読んで、ようやくトルフィンたちがヴィンランドに入植したところでした。もう完結してると思ってたから意外でした。

 

憎しみに染められていたトルフィンの眼が、父親と同じ澄んだ瞳へと変わっていった時の流れに、とても味わい深い、“大河感”みたいなのを感じました。いや~やっぱり傑作だなー。

 

最近ヤンジャンアプリで無料開放されていて読んだ「ゴールデンカムイ」も、腰を抜かすほど面白かったですが、実に甲乙つけがたい。

 

両者どちらも、独自性がありつつも恐ろしいほどに絵が上手で、キモであるシナリオの良さもマンガ史に残るほど飛び抜けていて、深いテーマまで、そこはかとなく感じさせてくれます。

 

そして「ヴィンランドサガ」を現行25巻まで読み進めて改めて驚いたのが、ほぼ実年表と一致しているということ。さらに当時の生活や習慣を含め、考察のレベルが、もはやファンタジーと化したNHK大河ドラマを、完全に凌駕しています。

 

さすがに西暦1021年に、ニューファンドランド島で材木を切って加工したのはトルフィンたちではなかったが、マンガ内の時系列からして、その数年後くらいにトルフィンたちは北米に到着しているということになる。千年前の数年の違いなんて、誤差の範囲である。

 

そして、ちょうど北米の原住民である、インディアンの一部族と接触が始まるところで25巻は終わっている。

 

 

いよいよ残りあと数巻で完結といったところだろうか。トルフィンたちには成功してほしいが、歴史に照らし合わせると、おそらくは悲劇的な最期になってしまうのだろうか。

 

 

しかし、「プラネテス」でも、異なる希望を見せてくれた作者であるからこそ期待してしまう。

アニメを含めての、独特の空気感と読了感は、まさに唯一無二の作家であり、手放しで礼賛できる、時代を超え得る作品であるのは間違いない。なんなら、海外のバイキング好きにも知って欲しいと強く思う。

 

 

死んでからドンドン存在感が大きくなっていく一方の、トルフィンの父親トールズや、アニメでも声優さん含めて最高にキャラが立っていたアシェラッドの最期といい、読者の予想を裏切りつつ、それ以上のドラマで魅せてくれた。

 

そして、ガトー役でお馴染みの大塚明夫氏によるトルケルも、さらに存在感大きくトルフィンに関わってきた他、まさかの生き写し実娘の登場により、お笑い要素まで強化された。

 

ラストスパートに向けて、不穏な要素も含みながら、役者と舞台は整いつつある。

完結も、堂々としたものであって欲しいとだけ期待しておこう。

漱石が現代に遺したもの。あと村上春樹との類似性

漱石終焉の地で

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金曜日は仕事が早く終わるので、念願だった早稲田にある、漱石山房記念館をやっと訪れる。日本の文章を劇的に変えた、夏目漱石の終焉の地に建っている。

 


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国民作家とも呼ばれる夏目漱石の凄さは、書き言葉としての日本語が、しゃべり言葉と一致していく変遷期において、非常に大きな役割を果たした点にあると思われる。

 


個人的には、漱石が新聞連載の小説で、今の日本の書き言葉を形作り、定着させたと考えている。

 

 


今となっては言文一致、つまりしゃべり言葉と変わらない書き言葉というのは当たり前だが、江戸から明治にかけての変化は、現代人の想像を絶するものがあった。

 

 

 

 

しゃべり言葉と書き言葉は地続きではなかった

 

征服されて、言葉自体を変えられた国はいくらでもある。

 


しかし、書き言葉だけに限っていえば、ここまで短期間、かつ“自発的”に変えた国は、日本の他にないと思われる。

 


江戸時代は、今の日本人にはチンプンカンプンで、平仮名すら判読も困難な、くずした候文(そうろうぶん)が書き言葉として使われていた。

 

 

そして、さらに上の知識人では、漢文の読み書き詩作が当たり前の教養だったのだ。もちろん、漱石も漢文の高い素養があった。

 

 

 

それが明治維新により、文字通りイチから、つまり言葉の創作から日本語の大変革が始まることとなった。

 

 

 

しゃべり言葉はまだ良かった。方言ではない共通語が浸透していくのは並大抵のことではなかったが、江戸弁がベースとなる標準語が江戸期から次第に形成され、また落語や講談を通して、ロールモデルとして存在していたからだ。

 

 

 

なのでしゃべり言葉では、標準語と舶来の新日本語を受け入れていくくらいで、基本的には事足りたのだが、書き言葉ではそんなスンナリとは行かない理由が、日本特有の問題としてあった。

 

 

現代人の感覚では、「しゃべってることをそのまま書くだけだから簡単じゃね??」と思いがちである。

 

しかし、当時の日本人は、しゃべり言葉の延長線上にある、そういう書き言葉を使ったことがなく、従ってそういう回路自体を持っていなかったのである。

 

ここまでしゃべり言葉と書き言葉が乖離していた国も珍しいのではないだろうか。

 

 

明治初期の他の作家、森鴎外樋口一葉たちは候文を崩しながら、なんとかしゃべり言葉を書き言葉に変えていったが、かなり色濃く候文の影響も残っている。

 

 

文章を書くにあたって、知識人として「最低限の体裁」をととのえようという、プライドがあったからではないかと邪推したくもなってしまう。当時は小説は下俗なものとされていたからだ。

 

 

結果、過渡期の書き言葉が使われた文学としては、当時最先端のカルチャーとして、一時代を画したものの、フォーマットとしては現代に残らなかった。

 


翻って夏目漱石は、初作品となる「吾が輩はネコである」の冒頭からして、その呪縛がほとんど感じられない。

 

 

有名なその序文から。


「吾が輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたか頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している」

 

 

老若男女どころか、人種の壁まで余裕で乗り越える興味の引き方といい、どことなくユーモアが漂う期待の持たせ方といい、ツカミとしては完璧としか言いようがない。


それどころか、そこはかとなく感じさせる哀感まであり、だからこそ百年経っても日本人の誰もが知る文学作品であり、国民的作家となっている。

 

また、そこはかとないユーモアが漂う「吾輩は猫である」だが、猫の目線から痺れるような箴言もポロリとある。

『呑気と見える人々も 心の底を叩いて見ると どこか悲しい音がする』

 


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↑若い頃の写真とのことだが、キャプションがないので誰が漱石かイマイチ不明w

 

 

漱石の創作のバックボーン二つとは

 

漱石のそうした創作の背骨になった要因はいくつか考えられるが、主に二つ、漱石ならではの大きな特徴がある。

 

 

一つはイギリス留学で、もう一つは正岡子規が親友であり、俳句の先生でもあった点である。

 

 

 

まずイギリス留学だが、これがドイツに留学した森鴎外と見事に対照的となっている。

 


当時の国費留学は、今の時代に宝くじに当選するよりも希少である。漱石は、約二年間イギリスで過ごした。

 


しかし、妻子を残してきたホームシックからか重度の神経衰弱(今でいう統合失調症か)となり、あまり外に出掛けることも出来なかった。

 

 

森鴎外も国費留学だったが、ドイツ人の娘が鴎外に入れ込んで騒ぎになるほどのリア充っぷりとは正反対である。

 

漱石は写真からして、当時でも相当なイケメンであったはずだが、特にこれといったモテエピソードがなく、イギリスでもモテなかった。

 


しかし、それが文学的な深化を彼にもたらしたのは、彼には不幸だったが、後世の日本人としては僥倖だった。

 

 

 

漱石村上春樹の共通点とガンダム

 

イギリス留学の二年間で、生活費を切り詰めてまで洋書を買い漁って文学研究したことで、漱石開明的な欧米文学を自分の血肉とすることが出来た。

 

 

同様に、村上春樹も洋書を読み漁り、また翻訳したことで、自分の文体が形づくられた趣旨の発言があり、興味深い共通点だろう。

 

 

この早稲田繋がりの二人の、文学上の共通点があるとするなら、共に人類共通の心の奥深くにある、普遍的な部分に触れ得ていることであると思う。

 

 

が、川端康成といった日本的な情緒が、まるで浮世絵が欧米で持て囃されるのと、同じ構図でノーベル賞を獲得したのと違い、あまりにも日本臭がない村上春樹は、いつまで経ってもノーベル賞がもらえない。

 

 

そして同じかどうかは分からないが、夏目漱石も国内の知名度に比べて、驚くほど海外(中韓ではそこそこ読者がいるらしいが)、特に欧米での認知度が低い。

 

 

このあたり、日本で主に男性層に、今だ絶対的といっていいコンテンツ人気を誇るガンダムが、アジア以外は知る人ぞ知るコンテンツでしかないことに、似ていると言えなくもない。

 

 

日本人かアジア人にしか分からない、心の機微か何かでもあるのだろうか。

 

 

 

漱石正岡子規の一番弟子説


もう一点の正岡子規の弟子同然だった点であるが、松山赴任時代から俳句の添削をしてもらい、二ヶ月近く同居していたこともある。

 

 

余談だが、根津神社近くには鴎外が住んだ後、漱石が住んだ家の跡があり、漱石はそこで「吾が輩は猫である」を執筆した。

 

 

今は小さな案内板しか残ってないが、見上げると塀の上を歩く猫の銅像?があって和む。

 

 

この鴎外、次いで漱石が住んだ家が、犬山市明治村に移設されているのを今知った。犬山城といい、是非とも行かねばならないだろう。

 

 

少し脱線した。

 
漱石はまた、司馬遼太郎坂の上の雲」で描かれていたように、谷中での晩年の正岡子規の句会に参加し、手ほどきも受けている。

 

 

漱石の活字デビューも、子規推薦により実現した、倫敦(ロンドン)便りの新聞掲載による。

 

 

 

俳句は、たった十二文字にすべてを凝縮させる、世界で最も短い文学であり、さらに徹底的な写実主義であった正岡子規に指導されたことで、漱石の言語センスは磨かれていったのだ。

 

 

このあたり、笑い飯に死ぬほど鍛えられて一流の芸人になった、千鳥の二人みたいで面白い。

 

あるいは、「自分は赤塚不二夫先生の作品である」と言って憚らないタモリのように、子規によって漱石自体が形作られた面も少なからずあったに違いない。

 


その他、漱石のバックボーンには、早稲田(漱石の祖父が名付けた夏目坂がある)生まれの生粋の江戸っ子であり、落語や講談が大好きだったこともあるが、やはり漱石漱石たらしめているのは、イギリス留学と正岡子規に負うところが大きい。

 

 

ちなみに、漱石作の俳句で、彼らしい人生観が反映された傑作も今回知り、さっそく竹製のしおりを購入した。

 

 

 

「すみれ程な 小さき人に 生まれたい」

 


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インフルエンサーとしての漱石

 

漱石の言葉には、現代人もドキッとするような箴言(しんげん)が多い。最も有名なのは、「知に動けば角が立つ。情に棹(さお)差せば流される。とかく人の世は住みにくい」だろう。

 

 

百年経っても変わらない、こういう人の機微をえぐったような言葉が、登場人物の何気ない会話でさらっと出てくるので唸らされる。

 

 

と思えば、今度は絶妙な諧謔心でクスりとさせられ、名人の落語でも見たような良質の笑いに、安心感のある満足も得られる。

 

 

これも人の業を切り取ったからこそ、古びれない普遍性を手に入れているからであり、百年経った今でも、日本人が作家としてまず浮かぶ筆頭が、夏目漱石ということにもなっている。伊達にお札になっている訳ではない。

 

 

 

現代でもそうなのだから、当然現役であった明治大正時代での影響力は、計り知れないものがあったはずである。

 


当時はマスメディアといえば新聞しかなく(ラジオ放送開始は大正時代末期)、現代のテレビ以上の圧倒的な影響力を誇っていた。

 

昭和にかけて、日本が無謀な戦争への道をひた走ったのも、朝日新聞をはじめとする、大新聞の扇動によるところが大きい。

 

 

そして、そんな朝日新聞で毎日連載小説が載っていた漱石は、低俗なものだった小説の面白さを国民に知らしめ、押しも押されもしないナンバーワン作家へと登り詰めていく。

 

まだ映画もラジオもない時代にあって、新たな文学である小説は、一流のエンターテイメントでもあったのだ。

 

 


その過程で、日常会話を書き言葉に落とし込んでいく見本を示し続けたことは、単なる先駆者以上の歴史的役割まで持っていたのではないだろうか。

 

 

事実、今日に残る言葉のいくつかは、漱石が作品中で使ったために定着したものがいくつもある。

 

 

造語したと本人が明確に言っているのは「浪漫」だけだが、その他、「沢山」や「月並み」、「兎に角(とにかく)」などが現代に伝わっている。

 

 


しかし、漱石の本当の凄さとは、文学の歴史の上で取り上げられるだけの、“過去の”作家に、未だなっていない点にある。

 

 

「永遠に通じるものは常に新しい」とは、小津安次郎監督の至言であるが、現代でも切れ味が衰えていない漱石の文は、未来も新たな読者を得ていくに違いない。

 

 

 

私も国語の教科書に載っていた「こころ」で、漱石に出会い、こうして漱石山房までやって来るような、好きな作家の一人となっている。

 

 


また、今日初めて知って刺さったのが、次の言葉である。

 


硝子戸の中から」大正四年


「所詮(しょせん)我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。
ただどんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、仕合わせなんだろう。」

 


晩年の漱石の死生観が垣間見れる、貴重な言葉だろう。「ジョハリの窓」を思い起こさせる、自己像についての箴言である。

 

 

よく知られる「ジョハリの窓」では、

①「公開された自己=Open self」

②「自分は気づいてないが他人から見られている自己=Blind self」

③「自分は知っているが隠している自己=Hidden self」

④「誰も知らない自己=Unknown self」

 

の四つの窓状のパネルに自己認識が分かれているとされている。分布図みたいなものか。

 

その内、後半の他人に分かっていない「隠している自己」と「誰も知らない自己」が公開されていくと、自己開示の度合いが進み、オープンな人格に近づいていくとされている。

 

 

漱石の言葉は、そもそも、この一番知ることすら難しい「誰も知らない自己=Unknown self」についてのもので、確かにそれは爆裂弾になり得るのだ。特定の状況において。

 

 

それは例えば、認知症になった時に、心に押し込めて忘れていたはずの思いが表面化し、爆発するということ等であるが、漱石さんはそんな状況は別に指してはいないだろう。

 

 

ただ、「こころ」における先生のように、爆裂弾が“その時”になれば、己の存在を揺るがすことになるのを言っているのではないだろうか。深い。

 


f:id:cheeriohappa:20210924010028j:image漱石も好きだった空也最中が食べられるカフェ
f:id:cheeriohappa:20210924010041j:imageいつでも漱石の本が読めるフリースペース

 


漱石のユーモア精神

 

漱石のユーモア精神は、最初の小説の主人公にネコを選んだことにも明確に表れている。

 

 

また、そのモデルになった猫が死んだ時に、知人宛てに猫の葬式があったことをハガキで知らせているが、これも実に漱石らしい諧謔心も伝わってくる内容で、漱石山房記念館で、そのハガキの複製が売られている。

 

 


漱石は、神経衰弱になるほど繊細だった一方で、ささいなことにも可笑しみを感じられるユーモア精神のある人で、筆まめでもあったことから、手紙にもさらっとそういう面がにじみ出ている。

 

 

娘が熱が出て、一緒に寝たらさんざん蹴られて降参した。という内容の手紙が残っているのも微笑ましい。家族の近しい距離感も伝わってきて、うらやましく思う。

 

 

また、ペット想いの人物でもあり、九段の立派なペットの供養塔まで作らせ、歴代ペットをすべて丁重に葬っていたとのこと。

 


戦災で焼けてしまったが、その残滓から再生されて、この漱石山房記念館の裏庭に今も立っている。

 

 


余談だが、その近くの地面に漱石山房旧居跡の礎石がそのまま残っていて、今も見ることができる。

 


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漱石の独特の結婚観

 

そんなやさしさのある漱石だったが、こと結婚観については、不思議なこだわりのある人物であった。

 


そのエピソードの一つに、鏡子婦人とのお見合い直前に「写真と違っていたら、そのまま帰るまで」と高浜虚子に言っていることがある。

 

 

 

これは、漱石が奥さんが期待通りの人だったから結婚したと解釈されていたが、その“期待通り”というのは、必ずしも美人という意味ではなかったのである。

 

 

というのも、結婚前の松山時代から、「美人過ぎる人は結婚相手に向いていない」旨を書き綴っていて、以前松山の坊っちゃん湯の漱石の部屋でそれを読んで、とても意外に感じ印象に残っていたのだ。

 

 

ちなみに、「坊っちゃん」でマドンナのモデルになったとされる女性の写真もあって、現代基準でも一目で分かる美人だった。

 


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なので、「そのまま帰るまで」という言葉を正確に理解するなら、「(美人で)写真と違っていたら、そのまま帰るまで」の可能性が高い。正反対の意味となる。

 

 

 

また、女性が高い教育を受けるのは嫌っていたらしく、娘には小説も読ませなかったそう。

 

 

現代人に通じる、開明的でコスモポリタンな思想の漱石先生にあっては意外だが、女性が頭でっかちになるより、古風な女性にある種の理想を重ねていたのだろう。男尊女卑とは必ずしも言い切れない。

 

 

 

ちなみに、理想の女性像を友人と討論し、結果お互いの奥さんがそれとはずいぶんかけ離れていると笑い合ったエピソードも残っている。

 

これも解釈次第でどちらの意味とも取れるだろうが、なかなか面白いと言わざるを得ない。勲章を辞退する、少しひねくれたところもある漱石流のノロケかもしれないからだ。

 


漱石さん、そー言いつつも、四十も後半になって七人目の娘を奥さんとの間に儲けており、妾を囲うのが当然だった当時の人としては、夫婦仲は良好であったのは間違いないだろう。

 

有名な木曜会でも、漱石が亡くなった後に、鏡子婦人がホストとなっての集いが昭和に入るまで続けられていた。

 

 


そして、その可愛がっていた末娘を、わずか一歳で喪ったことが漱石の死を早めたことも、なんだかんだ家族想いだった夏目漱石が、身近に感じられる一因となっている。

 

 

 

また、漱石はちょいちょい絵を描いていたようで、色彩感覚に特徴があり結構本格的といえるものだが、こちらは文章ほどは達人ではなかった様子である。

 

 

それでも、娘が勝手に人にあげまくっていたら、激怒したエピソードがあるので、それなりに愛着があったか、あるいは恥ずかしく思ったりしたのだろうか。

 


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次は漱石聖地巡り終着点

 

 

漱石山房記念館には、漱石が指示して植えた芭蕉(英名ジャパニーズバナナ)と、トクサが新たに植えられ、漱石が好んで座っていたベランダからの景色が、今も偲ばれる。

 


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奥さんが漱石の好物のアイスクリームをよく作っていたそうだが、ベランダで涼みながら食べたりしたんだろうか。

 


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夕暮れの中、そんな余韻に浸りながら漱石山房記念館を後にした。

 

 

 


残る漱石聖地巡礼は、雑司ヶ谷霊園漱石のお墓くらいだろうか(調べたらイギリスで住んでいた家が残っていたらしい。熊本にも何か残っているかもだし、犬山市にも行かねば)。

 

以前、タクシーの勤務中で近くに行った時に、霊園の地図では確認していたが、まだ参ってはいない。

 

 

近くに、「カリー・ザ・ハードコア」という、ドイツシチューをベースにした今までにないカレー屋さんができていて、シュマルツという、ラードに香味野菜等を加えたドイツ独特の調味料がおいしいらしいので、これも行ってみたいと思う。

 

 

 

 

さて、まだコロナ緊急事態宣言中で、なかなか旅にも出られないが、都内のプチ散策もなかなか悪くないと思える日だった。なんだかんだで地下鉄四駅分は余裕で歩いたしー(∩´∀`)∩

#就活する前に知るべきマインドセットとは?


昼スナックママが伝授 40代からの「ご機嫌な働き方」|NIKKEI STYLE

 

 

In the right place, in the right time.

正しい時に、正しい場所にいるか?

 

転職の際に、マインドセットを整えていくのに役立った本とマンガを紹介しようと思う。

 

本は、『昼スナックママが教える45歳からの「やりたくないこと」をやめる勇気』で、マンガは「ドラゴン桜」と同じ作者による『銀のアンカー』である。

どちらも、心理分析が絶妙で、即効性のある転職対策となったことで、自分の人生についても再考する契機ともなった良書。

最後に心に刺さった文をまとめておいたので、就職活動の森で迷ったら、参考になったらいいなと思います。

 

 

さて、オランダへ移住するための計画を、下見に行った2017年から進めてきて、職業訓練校にも通い、ようやくやりたいことと出来ることの妥協点と将来性に、目鼻みたいなものがついてきたと思っていた今年2021年初夏。

 

友だちがいるニュージーランドに帰ることも考えたが、ビザのハードルが高くなっていて、その点、日本人だとすぐ起業できるビザがもらえるオランダはとても魅力的だった。

 

カレーかラーメンのチェーン店でノウハウを学ぶべく、カバーレターまで書いてハローワークに行くと、担当のやさしいおじさんに、「こんなのがありますよ」と、プリントされた紙を渡された。

 

一見無理そうな、お堅いドライバーの仕事募集。英語を使える仕事が出来たらと言っていたのを覚えてくれていたらしい。

 

これまで練ってきた計画がフイになることに、正直抵抗はあったものの、ダメ元で応募してみることにした。他への応募は一旦保留。

 

 

結果、オンライン面接、対面面接等を経て、なんとか仮採用となり、八月上旬から働きだして今に至る。

 

 

半年は仮採用期間であるし、オランダへ行きたい根本的理由が、「尊厳死があること」には変わりないものの、三十人以上から選ばれたからには失望してもらいたくはない。定年後にだって、オランダへ行くのは可能だし、あのカーネル・サンダースおじさんがケンタッキーフライドチキンを始めたのも、65歳になってからだそう。

 

 

また、自分は今まで、料理人としても観光タクシードライバーとしても、本当の意味合いでのプロフェッショナルにはなれず、おまけに結婚も一度失敗しているが、そのすべてがあって今回の仕事に繋がっていると実感している。

 

人生において、無駄なものは本来ないのだと感じる。失敗も後悔も経験しなければ、他人のそれを本当に想像することは出来ないのと一緒。

 

そして、想像することそのものが、動物と違う、人が人として存在している由縁であるだろう。

 

 

さて、少し脱線しかけたが、とりあえず言いたいのは、タイトルのように、“正しい時に、正しい場所にいるか?”である。

 

 

自分の場合、料理人としても観光タクシードライバーとしても中途半端だったものの、何ごとにも興味深い自分だからこそ出来るアテンドや、走り屋時代に培った荷重移動のテクニックによるスムースライドや、ロールスロイスのブレーキ(スーッと止まる)を、半ばネタみたいにアピールできた。

酔っぱらいを吐かさないスムースライドは、なかなかウケたと思う。

 

また、仕事を始めてから聞いた話が、自分が歴史好きであるのも好印象という点だったこと。

余談だが、歴史好きはアピールしたが、ミリタリーファンなことは当然、弟が自衛隊ゴラン高原PKOに参加していたことも一言も触れなかった。

 

プラスになった可能性もあるが、何がマイナスにつながるか分からないし、センシティブな部分でもあったので、余計なアピールをしなかったのは、結果論としては正解だった。

 

他にも、ダメなら渡航解禁後にオランダ行けばいいやと、あまり気負っていなかったのも良かったのかもしれないが、上記の二冊の“参考書”が役に立ったのは言うまでもない。

 

 

また、かねてから違和感を感じていた「自己実現」という言葉の裏にある闇を、読んで感動した「ルックバック」を手掛かりに、“自己表現”との対比で明確化してみた。

誰もが陥りがちな落とし穴なので、これも何かの参考になればと思う。


『ルックバック』で描かれた創作のよろこびとは - 海外でサバゲをやってみた Ninja St☮g plays Airsoft in the world

 

ということで、最後に冒頭に触れたそれぞれの本とマンガから、心に刺さってメモしておいた文を箇条書きしていこうと思います。

 

 

 

『昼スナックママが教える45歳からの「やりたくないこと」をやめる勇気』より


「次のステージで何をいちばん重視するかをはっきりさせること。これから働くうえで大事にしたいことの優先順位を付けてみる。何があれば自分は満足できるのか、どんな条件は譲れないのか、何は妥協できるのか。年も重ねてきた今の自分が、いちばんパフォーマンスを出せるのはどういう状況なのかは、自分にしかわからない」

 


「大事なのは2つあって、1つは自分の才能が花開く場所にいたいということ。もう1つはいい仲間と働きたいということ」

 

 

「経験もスキルも積んだ大人なんだからさ、「雇ってもらう」という発想だけじゃなく、その会社で自分が働くことが会社にどんな恩恵をもたらすのか、自分の力を100%発揮するために、どう働いていきたいか、をきちんと伝えていくことも大事」

 

 

「再就職先を探すのなんて不動産物件を探すのと一緒で、たまたまのタイミングもあるし、100%お互いの条件が合うことはなかなかないと割り切ったほうがいい」

 

 

「ゆくゆくは起業を念頭に置いているなら、そのための人脈づくりや、仕事の内容が起業につながりそうな会社を、次に選ぶのもいいしね」

 

 

「誰がなんと言おうと自分に合った職場を見つけられる人が幸せになる。市場価値なんて言葉に踊らされないでよね」

 

 

 

最後に、マンガ『銀のアンカー』より

 


人事も共感!内定請負漫画「銀のアンカー」名言集【HR NOTE編集部による19選】 | 人事部から企業成長を応援するメディアHR NOTE

 

「人の印象には、言語的アピールと非言語的アピールがある」

 

 

「面接では、人柄をみている。その人が客観的に自分を認識しているか、が最も知りたいこと。
雨と晴れ、両方バランスよく兼ね備えていて、それを自覚して行動できるかを見られている。

(もっと言うなら、その人物が“地雷”ではないかも注意点としてある)※カッコ内は他からの付け足し」

 

 

「内発的動機付け、問題解決能力、不確実性への耐性」

 

 

「就活の三種の神器
人柄、熱意、可能性

可能性は、伸び代を見るというより、基礎が出来ているかを見られる」

 

 

「自己分析は自分探しではない。社会との関わり方を考える」

 

 

「世の中の常識、社会や企業のあり方、その時代の価値観、それらを分析して、それに対して自分はどういう意見か、どういう生き方を選択するかが自己分析」

 


「会社の持つ将来性

業績、将来性、技術開発力、資産」

 

 

「自分は人事部が、役員に胸を張って推薦できる人物か?という視点を持つ」

 

 

「ベストな企業より、フィットする企業」

 

 

「働く人の視点を持ち、辛いこと面倒くさい地味なことにも着目し、それに対応できるか」

 

 

エントリーシートは、まず会いたいと思わせ、面接で質問させ、採用会議で思い出させることを目標に、社長宛てに書く」

 

 

「面接で訊かれる「最近気になったニュース」は、その業界でのビジネス感覚を問われている」

 

 

「企業が求める一流大学に負けないためには、頑張ることと、対価を払うこと」

 

 

「知的レベルの高い人間は情報に金を払うが、低い人間は金を出さない」

 


「目の肥えた知的レベルの高い人間を満足させるために、きちんとお金をかけて取材をし、識者の目で監修チェックされ、プロによって制作された媒体にしか、精度の高い情報は載っていない」

 

 

「芸者や忍者という、彼らに興味のある“価値”をまとって、初めて存在を認められた」

 

 

「志望する業界・企業の求めている「自分の一面」をアピールする」

 

 

「企業が更に発展する“新戦力”であることを伝える」

 

 

「就活を通し、一生必要とされる「できる人間」に成長しろ」

 

 

「「借り物じゃないユニークな体験」と「普遍性のあるユニバーサルな事象」の両方があるストーリー」

エロマンガ島で発見されたドラゴン、空飛ぶ爬虫類の化石 オーストラリア最大だった


CNN.co.jp : まさにドラゴン、空飛ぶ爬虫類の化石発見 オーストラリア最大 - (1/2)

 

さて、今日契約を済ませ、明日から正式に新しい職場で働くのだが、それどころではないビッグニュースに心を鷲づかみにされたのでシェアしよう。

 

 

オーストラリアで、これまでの翼竜とは全く異なる、爬虫類の化石が発見されたとのこと。

 

ドラゴンとも形容される、見事な歯並びと凶悪な面構え。翼開長7mは、翼竜最大と思われるケツアルコアトルスの12mまで巨大化はしていないものの、全長1mを超える頭骨の乱杭歯は、ボスクラスの存在感である。モンハンにいそう。

 

 

ここまでなら、わざわざエントリにするほどでもないが、もう一つツボったので引用しておこう。

 

 

この新種の翼竜の見つかった場所が、旧大陸にあった「エロマンガ内海」。

 

 

 

。。なんだその、中学生の内海くんがこっそり買ってたのがバレて、それにちなんで付けられたあだ名みたいな海は。内海くんは知り合いにいないが、顔まで目に浮かぶわ。

 

それとも、エロマンガやないか~い!というツッコミ待ちだろうか。

 

 

 

てゆーか、それこそ中学生の時に、地図帳でエロい地名を探すのがプチ流行ったものだが、エロマンガ島ってなかったっけ??

 

 

んで調べてみたら、やっぱ出てきた!!!

 

Eromango Islandという綴りで、イロマンゴ島となっているが、エロマンガ島とも言うらしい。

 

バヌアツ領の島で、食肉文化もかつてはあったそう。

 

 

それはさておき、「エロマンガ」は多分同じスペルだろうから、エロマンガ内海(ないかい)があったであろうバヌアツ近辺も、昔はオーストラリア大陸と地続きだったということだろうか。

 

 

ニュージーランドでも最近になって、ニュージーランド“新大陸”説が大きな話題になってきているが、オーストラリアもまだまだ謎の多い大陸なので、これからも興味を持ってフォローしていこうと思う。

歴史マニア、埴輪と三成の歴史交錯点で楽しさ二倍にばーい

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行田さきたま古墳群と忍城ゼリーフライ


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麒麟の田村似すぎやろ❗


暑くなりつつある6月下旬、梅雨の晴れ間に埼玉県行田市にある、さきたま古墳群と忍城(おしじょう)へ行ってきた。

 

 

さて、転職先が見つかって一安心。八月からの勤務になるので、一ヶ月ちょいを行きたかった場所巡りに使うことに。

 

第一弾は、さきたま古墳群と忍城となった。

実は昨日、家を出るには出たのだが、28度の暑さをなめていて、途中で断念して引き返していた。

 

そして本日、朝雨で良い加減に気温が下がったのでリベンジとなった。

 


まずは腹ごしらえ

 

蕨駅まで自転車で向かい、京浜東北線で浦和まで行き、高崎線乗り換えで北へ向かう。


途中、鴻巣で降りて、以前の免許更新時(鴻巣には埼玉県免許センターがある)に見つけていた老舗うなぎ屋「柳家」でランチ。

 

 

街道時代からの老舗の柳家は、ひなびた佇まいながら、入ると年配のお客さんでほぼ満席で、検温してテーブル席につく。


ランチうな丼1250円は、老舗のうなぎ屋さんとしては破格に安い。来るまでどんなのかは分からないものの、老舗であるし、地域住民の人気からして、外れの確率はかなり低いと思われる。

 


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果たして、うなぎはやはり少し薄身なものの、立派なうな丼セットが登場。

 

さっそく箸をつける。老舗だけにおいしい。骨もなし。でもやっぱり蒸さずに焼く関西風の方が、うなぎのうまみがたっぷり残っているから好きかな~。タレも薄めで、骨から出るダシの風味もあまり感じなかった。江戸っ子や年配の人が好みそうな、上品な味とも言える。


しかし、ひなびた店でもランチでほぼ満席になるのは、地域に愛されている証拠。ながく続けていってほしいと思った。

 

 

ちなみに実家にいた時は、スーパーで生のさばいたうなぎやアナゴを買ってきて、そのまま囲炉裏で炭火で焼いて食べるのがサイコーのご馳走だった。


白焼きでも、タレ焼きでも、ブルンブルンの歯応えと、ほとばしる旨みを堪能できた。

 

焦げ目をしっかりつけるのが好みで、目の前の焼き立てを食べる醍醐味は、下手に上品な(?)鰻屋で食べるより満足度は高いと思う。ニュージーランドから友人が来た時も、これが一番ウケた。

 

 

 

 

ぼっち旅御用達レンタサイクル

 

再び鴻巣駅から電車に乗り、数駅で行田駅着。東口出てすぐの観光案内所でレンタサイクルを一日五百円で借りる。

 

他にもクロスバイクや電動自転車も割り増しで借りれたが、ママチャリだと16時までの返却の義務はないのが大きなメリット。

返す時は、観光案内所そばの駐輪場に停めて、鍵をボックスに入れるだけでいい。助かる。


一人だと、気ままなレンタサイクル旅は、時間にも縛られずちょうど良いのだ。あまり地形に起伏がないことが大事だが。

 


チャリ通勤で往復16km毎日走っていたので、平らなら半径10kmまでなら片道一時間とみとけば余裕である。

 

 

さきたま古墳群までは、のんびり走って20分強。途中、一回だけの右折で着くので分かりやすい。ナビに使えるスマートウォッチが欲しいな~。

 


さきたま古墳群到着。まずは資料館で情報収集。

 

なるほど、さきたま古墳群は、大和朝廷の勢力下にあった集団が築いたもので、後の天皇の親衛隊長の地位にあった人の古墳もあるそう。

 

百年に一度と言われた、出土品の国宝の剣にそう記されているとのこと。

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埴輪のゆるキャラぶりに癒される


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絶妙にすっとぼけた表情の、埴輪の造形の面白さに心を奪われていると、いきなり国宝のショーケースの列が始まる。しかも数がかなり多い。

 


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興味深いのが、金属加工に必要だった、やっとこ(鉄製のペンチ)などの工具類が多く出土している点で、鉄器製造の工房もあったのだろう。


ピュリッツァー賞受賞の世界的名著「銃・病原菌・鉄」でも、人類の歴史を変えた鉄について詳述されているが、古墳時代にかけて日本にも普及した鉄は、大きな影響を日本に与えたに違いない。


おそらく、弥生時代の銅鐸文化は、鉄によって駆逐され、鉄の時代になっていったのだろう。

 

鎧や武器の変遷のパネルも実に興味深かった。


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勝手に考察シリーズ。「邪馬国はどこ?!」

 

話は逸れるが、邪馬台国の所在地論争は、現実的には決着はもうついていると思われる。


これまで、畿内説派と九州説派がケンケンガクガクの論争を繰り広げてきたが、“同時期”に栄えた大和朝廷畿内で勢力を伸ばしていったので、畿内説はまずあり得ないのである。二つは全く違う国家なのだ。

 


つまりは、教科書に載っていた国宝の金印が出土した九州でほぼ間違いはなく、残る謎は邪馬台国の直接的な遺構のありかに絞られる。

 

 

個人的には、規模の大きさからしても、吉野ヶ里遺跡でいんじゃないかな~と思うが、卑弥呼に繋がる確かな証拠もなく、時代が合ってるかも知らない。

 

ただ、渡来人や出雲の流れも汲むらしい、最初は弱小連合国家だった大和朝廷が、近畿中国地方、さらにはさきたま古墳群や朝鮮半島に至るまで、巨大古墳をせっせと拵えていったのに対し、意外なことに九州地方に大規模な古墳は、知っている限りでは一つもない。

 

久留米で街中にたまたま遺跡を見つけて見学したことがあるが、古墳というより、あぜ道に毛が生えた程度でしかなかった。墓でもなかったかもしれない。

 

 

考えられるとしたら、邪馬台国卑弥呼のネームバリューと、魏志倭人伝で記録されていることから日本史上での存在感はあるが、せいぜい地方勢力の一つでしかなかった可能性である。

 

惜しむらくは、銅鐸や古墳のような、権威を知らしめるような“装置”が、邪馬台国関連でのこされていないことだが、これも出土品に卑弥呼の文字が発見されでもしたら、お祭り騒ぎになることは確実である。


いずれにしろ、邪馬台国の場所が特定されたら、世紀の大発見になることは間違いない。

おそらく、映画や大河ドラマになったり邪馬台国展が開かれたり、世界遺産に認定される以上の盛り上がりをみせるだろう。今から楽しみである。


新たな新事実が発見されると、「勝手に考証シリーズ」でも検証していきたいと思う。

 

 

 

いよいよメインの古墳巡り


資料館は、国宝がズラリと展示されていて圧巻だった。


しかし、やはりメインは古墳である。


古代ロマンに触れるだけで、どんぶり飯三杯はイケる自分にとって、古墳が大小10個以上も群生しているなんて、コーフンすること甚だしい。…いや、何でもない。

 


地元岡山の造山(つくりやま)古墳も、日本四位と大きさでは負けていないが、ここまで密集してはいない。


一時期住んでいた南大阪の羽曳野市にも、巨大古墳は数あれど、隣接まではしていなかった。

 

そして、宮内庁管轄ではないので、自分で歩いて登れるのが、造山古墳やさきたま古墳群の素晴らしい点である。

 


ここ、さきたま古墳群は密集しているので、ちょうど良い散歩ルートとしても整備されているのだが、レンタサイクルで半時計回りで一気に廻る。


まだ雑草の伸びる時期なので、あまり草刈り等の整備はされていないが、こんもりとした古墳はやはり存在感がある。


さきたま古墳群の面白さは、数の多さももちろんだが、それぞれの形が前方後円墳から円墳、方墳などバラエティに富んでいることにもある。

 


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たしかに草ボーボー過ぎて、やや風情には欠けるが、兵(つわもの)どもの夢の跡と思えば、とてつもないエネルギーを注ぎ込まれて造られた古墳が、古代政治において果たした役割にも興味が湧いてくる。

 


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まず意外だったのは、このさきたま古墳群が、純粋な支配者の墓ではなかったことに尽きる。

国宝の剣にも明記されているように、大和朝廷の大王(後の天皇)に使えていた、親衛隊長の墓であったのだ。


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古墳年表からしても、大和朝廷の巨大古墳が近畿中国地方に現れて、一世紀から二世紀くらい遅れて、さきたま古墳群が造られたとある。

 


弱小連合国家であった大和朝廷が、全国的な支配権を確立していく過程で、後の雄略天皇になる大王の元親衛隊長だった将軍クラスの人物が、関東地方の鎮定で派遣されてきたと考えるのが自然だ(最新の研究では、大王が持ち回り制だった可能性も出てきている)。

 


であるならば、力を誇示するために、巨大な古墳を造ってみせるのは理にかなっているし、異例なほど密集させたのも、初見のインパクト狙いだった可能性もある。

 


実際、大きな古墳は、ナウシカに出てくる巨大な王蟲といった趣きがあり、存在感に圧倒される思いすらある。

 

ましてやそんな巨大建造物が、平らな関東平野で、遠目からでも分かるくらい密集して存在していれば、敵対勢力の度肝を抜いたであろうことも想像に難くない。

財力と人員の動員力を見せつけるのに、巨大建造物以上に分かりやすい例も無いだろう。

 


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ちなみに、さきたま古墳群で最大の丸墓山古墳は全高19mもあり、なんと7階建てくらいのビルに相当する。18mのガンダムよりでかいww。

 

まっ平らな平地でその高さは、かなり遠くからでも視認出来たはずである。やはり、現地に来ると実感できることは多々ある。


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丸墓山古墳にも登ってみたが、実に遠くまで視界が開け、数キロ先の忍城(おしじょう)も確認出来た。


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今回、さきたま古墳群にやってきた、二つ目の目的は、この瞬間に達成となった。

 

 


治部の小輔(じぶのしょう)

 

そう、ここ行田は歴史上において、二度もホットスポットとなっているのである。

 


一度目はさきたま古墳群で、埼玉県の県名の由来にもなっている。


そして二度目は織豊(しょくほう)時代、秀吉の天下平定の最後のピース、小田原城攻めにおける忍城の存在感である。

 


忍城攻略の全権指揮官となって、丸墓山古墳に本陣を敷いたのが、治部の小輔(じぶのしょう)。
当時は役職で呼ばれることの多かったその人物の名は石田三成

 


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丸墓山古墳の上から見る景色は、石田三成が見ていた景色そのものだったのだ。
ロマンだな~(・´ω`・)

 


石田三成忍城攻略に、秀吉の備中高松城水攻めの追従の意味もあって、同じ水攻めを選んだ。

 

備中松山城の堤防も度肝を抜かれたが、3km(300m説が最近の主流)の築堤で12日間とある。

 

 

忍城水攻めに、14kmもしくは28kmにも及ぶ堤防を、わずか五日で築いたというのは、ちょっと想像もつかないし、現実的ではないと思われる。

 

 

それはともかく、圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、結果的に水攻めは失敗となる。

 


そして、石田三成の最大の汚点となった他、秀吉が唯一攻略出来なかった城として、忍城は有名になったのである。

 


きっとそれを成し遂げた、源氏の流れをくむ坂東武士の意地が、その後江戸っ子の琴線に触れるところ大だったこともあるに違いない。

 

西日本出身者としては、忍城は馴染みが薄いというか、正直知らなかったが、太田道灌公のように、関東の人には特別な思いがあるのかもしれない。

 


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本陣のあった丸墓山古墳を降りると、桜並木の土手があり、看板には石田堤跡と書いてあった。


電車で数駅離れた、昼ごはんを食べた鴻巣市にも石田堤遺構があるそうなので、水攻めのスケールの大きさに改めて感心する。いや、マジでやったの?光成さん。

 


ロジスティックス(物流、兵站)の鬼であった石田三成だったからこそ、そんな国家事業的な大工事を、わずか五日で完成させることに成功した。平時であったなら、とてつもなく有能な人物であったに違いない。

 

 


石田三成は、どうもその神経質そうなキャラクターからあまり人気がないが、島左近を幕僚に加えた際、気前よく自分の持つ半分もの領地を与えたことからも、決してセコくて悪い領主ではなかったと思われる。

 


ただ、石田三成の実物の遺骨から復元した鑑識結果では、長い頭に反っ歯(そっぱ)、つまりは出っ歯であることが分かっていて、あまり人相は良くなかったのは確かなようだ。

 

 

 

のぼうの城

 

今回、行田市に来るにあたって、「のぼうの城」の原作と映画DVDで予習してきた。
映画の方は城のイメージ映像くらいの参考にしかならなかったが、原作は面白かった。

 


さきたま古墳群から自転車で10分少々で到着。きれいな水辺のある公園が途中にあり、市民が多数釣糸を垂らしていた。のどかな雰囲気が実に良い。

 


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忍城に隣接して、忍中学校がある。まるでナルトの忍術アカデミーみたいでクスッとした。

 


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忍城に着いたが、資料館は四時閉館だった。仕方なく忍城に入って行ってみるが、天守閣に見えたのは立派な櫓でしかなく、中は広場でしかなかった。

 


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それでもベンチに座り、しばし感慨にひたる。隣の市立忍中学校の喧騒がかすかに聞こえてくる。悪くない休日だ。


しかし蚊が寄ってきて、小腹も空いてきたので、最後に行田名物ゼリーフライとフライを食べに行くことに。

 

 

 

正統派B級グルメゼリーフライ


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事前にいくつかの店をピックアップはしていたのだが、一番地元民に人気がありそうな店は定休日だった。


なので、忍城に一番近い「かねつき堂」へ行ってみる。

 


中で注文し、外の座席で食べるシステム。ゼリーフライ二個で二百円。

プレーンなお好み焼きかフライは大小あり、卵入りや焼きそば入りを選び、さらにしょうゆ味かソース味かも指定する。卵入り小しょうゆ味四百円と、ゼリーフライ二個をテイクアウトで頼む。

 


店内は、芸能人のサインと、入り口にでっかい謎の写真のパネルがあった。

 

尺八を吹く虚無僧と、それをカメラで激写しているおばあちゃんのシュールな構図。かなり古いと思われ、セピア色のパネルで異彩を放っている。

 

まるでアイドルを鼓舞しながら撮影している、カリスマカメラマンのようで、なんか笑えた。だが、実に良い写真である。


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外のベンチに座っていると名前を呼ばれて取りに行く。受けとるとかなりズシリとしている。


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座って食べる。まずは味が薄いであろうフライから。見た目は折り畳んだ薄いお好み焼き風で、阪神百貨店の名物イカ焼きを巨大化したようなイメージ。

 

ただの小麦粉生地と思いきや、かなりモッチリとしている。玉子のほか、ほんの少しだけ鳥肉が入っている感じ。

 

 

今の基準だと、うまいともまずいとも言えない印象だが、戦前戦後にはご馳走なおやつだっただろう。

 


二口くらい食べて、次はゼリーフライゼリーフライは、おからを混ぜたコロッケの中身だけ揚げた感じで、それをソースにくぐらせてある。

 

味も、おからを混ぜたコロッケの中身を揚げたものを、水気の多いソースにくぐらせたとしか説明しようのない味。これも、うまくはないがまずくもないという、実にビミョーな感じ。

 


が、やはりこれは時代のせいもあるだろう。ゼリーフライやフライは、昭和初期に生まれているのである。食料事情が現代とは全く異なる。

 

ましてや、当時の地方都市で手に入る地場の安い食材で作られた、庶民のおやつとしての成り立ちからすれば、ほとんど変わらずに今も愛されるB級グルメであるのは、奇跡であるとも言える。

 


それだけ地元民に愛されるのには、必ず理由があるのが、B級グルメの奥深さであり、だからこそ実際に現地まで行って食べてみなければ、分からないことも多々あるのである。歴史フィールドワークをする真骨頂とも重なる。

 

 


さて、このゼリーフライとフライについての最終報告である。

 

出来立てで、空腹であったにもかかわらず、それぞれ二口ずつしか食べれなかった。テイクアウトにしたのは正解であった。

 

というのも、ゼリーフライとフライは、B級グルメでも最弱という噂は、第一次B級グルメフィーバーだった、2006年か2007年頃のB-1グランプリから耳にしていたからである。

 

ゼリーフライという、名前のインパクトに完全に負けているという風評だった。

 

それは実際食べてみて、半分正しかった。他のきらびやかなB級グルメに対し、味のインパクトも、キャラクターからしても、実に弱いのが否めない。

 


しかしどうだろう。帰って夜食にトースターで焼いて食べると、どちらも実に滋味深い味わいで、出来立てよりおいしく感じた。

 


と同時に、昭和初期の子どもたちが、どれだけ楽しみにフライやゼリーフライを食べていたかに思いを馳せると、現代人が豊かになるのと引き換えに失ってしまったものを考えさせられた。

 


際限ない欲望は、いつか身を滅ぼす。足ることを知れば、何てことないゼリーフライでもご馳走になる。一日の終わりにそんなことを思った。

 

 


さて、ずっと行きたかった行田は、実に魅力的な歴史が詰まっていた。

 

ドラマ「陸王」を観ていれば、足袋の歴史とかにも興味が向いたかもしれないが、未見の上、今回はさきたま古墳群と忍城でお腹いっぱいになった。

 


というか、情報量が多過ぎて、ほぼ書き終えてから、さきたま古墳群に埋葬された親衛隊長が仕えていたのが雄略天皇であるのに気づいて加筆訂正した。

 


雄略天皇の墳墓は、かつて住んでいた大阪府羽曳野市の家の徒歩圏内だったのだ。巨大な壕をたたえ、木が鬱蒼と繁った、指折りの大きさの前方後円墳だった。

 

高さは、さきたま古墳群の丸墓山古墳の方があるが、規模の大きさは雄略天皇の古墳の方がはるかにあったのを思い出す。

 

 

20年の時を経て、点と線が繋がったことに、今更ながらに鳥肌が立ちそうな思いにとらわれる。


これぞ歴史の醍醐味そのものである。バラバラだった断片から、系統図や因果関係が浮かび上がってきた時、教科書の知識でしかなかった歴史が、とたんに人の織り成すドラマとして生き生きと脈動し始めるのだ。

 

 

さて、今度はどこへ行こう。忍城へ行ったからには、小田原城も行かねばならないだろう。その際には秀吉の築いた一夜城もマストである。

 


城好き絶賛の犬山城にも行ってみたいし、長野県を始めとした各地にある縄文遺跡も忘れてはならない。いや、夏休みは恐竜イベントシーズンでもある。

 

いやいやいや、それを言ったら国立科学博物館とかもまだ行ったことはない。東京を起点とすると、行きたいところは山ほどあり、また交通の便も悪くないのがいい。

 


そして、さらにこうして文章に残すことで、牛が食物を反芻するように、何度も何度も考察し、楽しむことが出来る。


また、知識がアップデートすれば、既知の歴史を照らすライトの加減も変わるので、その度に発見があるのである。


時には知識を根底からくつがえされることもあるが、それすら心地よい。歴史とは実に味わい深い趣味の一つであると言えよう。

 

まあ、あわてず焦らず、少しずつ楽しんでいこうと思う。

尾崎豊と『ルックバック』から読み解く「自己実現」の危うさ


『ルックバック』怪物級ヒットはなぜ? 藤本タツキ氏の“異能”な作風 | 映画ライターSYOの深掘りポップカルチャー

 

「ルックバック」は宝石のような短編マンガ

 

#ルックバック#マジすげえ

 

漫画「チェーンソーマン」の作者藤本タツキ氏による読み切り作品「ルックバック」に衝撃を受けた。

 

そして途中まで読んだその熱で、自分の文章を完成させることが出来た。

 

「ルックバック」リンク

https://crea.bunshun.jp/articles/-/32080

 

 

わずか一日で250万閲覧とのことだが、ホンモノが持つ力はすごい。若者であるZ世代にも刺さる力。

 

漫画を描くのが好きな二人の少女を通して、“創作”すること自体の、おそらくは人が得れる最上のよろこびが、見事に描写されていた。

 

そして、絶望の淵からまた立ち上がり、新たな創作の力を得る二人の絆に、久しぶりに泣くことが出来た。

 

挟まれる四コマ漫画も、ジワジワくるというか、実に良い味とアクセントになっている。藤本先生、ユーモアのセンスも相当ある。

 

控えめに言って、傑作である。青春時代の輝きと蹉跌が、切ないほどによみがえってくるようだった。

 

そして尾崎豊の曲「シェリー」に、深い部分で通じるものがあると感じたので、後で触れていきたいと思う。

 

 

そんな傑作、「ルックバック」で瑞々しく描かれていた創作のよろこびを、一言で端的に表現するなら、「自分自身への手応え」ということになるだろう。

 

主人公の藤野は、勝てないと思っていた京本に先生と認められることで、失いかけていた創作意欲を二度取り戻していく。

 

また、引きこもりだった京本も、自分を藤野に発見されたことで、居場所を見つけ、さらには社会へ出る生き方を選んでいく。

 

二人の原点は、創作による自分自身への手応えであり、それぞれの道が別れて悲劇を迎えても、帰ってくるのはそこだった。

 

 

とても繊細な物語ですが、短編なのですぐ読み終わります。

 

しかし、よい創作物は、人間というものがよく描かれていて、心を耕してくれるということが感じれてオススメですね。

 

 

 

自己実現の落とし穴
 

ここからは、「自己実現」という言葉をヒントに、現代日本人の心の闇に迫っていこうと思う。

 


さて、藤野も暗黒面に落ちかかったように、自分自身の“重量”を感じられないと、人は簡単に心を病んでしまいがちである。

 


そのため世間では、いつの頃からか「自己実現」という、自分探しのクエストが、ポジティブな言い訳として使われるようになっていった。

 


しかし個人的に、「自己実現」というのは、他人から認められることを期待して横目でチラ見しているようで、好きな言葉ではない。

 


自己実現自己実現といいつつ、実際は他人の評価軸に照らし合わせた、“恥ずかしくない”自分を認めてもらいたいだけの、承認欲求を多分に感じてしまうのだ。

 


それは「自己実現」で想起されるものが、あくまで羨望の対象でしか語られないことからも明らかである。

 


さらに言うなら、分かりやすい立派な肩書きがあるかどうかが、その人の価値を大きく左右するという、現代資本主義の欠陥にも繋がっている。

 

みんなそれぞれ、見えない階級章と値札をぶら下げているようなものなのだ。見えなくても、そこには明確な上下関係と貨幣価値が存在している。

 


自己実現」を果たして、誰もがうらやむようなストーリーを手に入れないと、社会的にはほぼ無価値と見なされるのが、かなしいかな現実である。

 

特に、就活は残酷な儀式だ。一握りの例外を除いて、嫌でもそれを思い知らされる。

 

が、就職して、幸運な側になっても、就職そのものは「自己実現」なんかではないと、強く感じる。

 

 

 


しかし皆、社会の階級を上がるために、よりレア度の高い肩書きと報酬を手に入れようと努力し、手に入れた者は勝ち組、そうでない者は負け組と、たちまちラベル分けされていく。

 

さらには、結婚自体もそれに大きく左右されてしまう世の中だ。

 

 


しかし言うまでもなく、それはその人本来の価値を反映したものではない。

 

コーネリアス小山田圭吾の例を引くまでもないが、どんなにクズであったとしても、自己実現して階級が上がれば、世間的には立派な存在になってしまうのだ。彼は馬脚を現して粛清されることとなったが。

 


思うに、自己実現なんてものが本当に存在するなら、それは誰かにとっての「かけがえのない自分」同士であることを、お互いに認め合える関係性においてだろう。まさに「ルックバック」における、藤野と京本のように。

 

 

繰り返すが、人は本来、他人との関り合いにおいてのみ、自分の存在の重量、つまり“自分自身への手応え”を感じ取れる生き物であると思うからである。

 

そして、その本質的な関わり合いが成立した時、本当のその人に触れ合えるのであり、どちらが上とかは、本来まったく関係ない。

 

 

しかし、現代社会は、これだけ人が増えているにもかかわらず、そうした人として最も大事であるはずの、心の遣り取りがどんどん難しくなっており、自分の存在の軽さや、孤独に苦しむ人ばかりとなっている。

 

それは、「自己実現」で得られるものが、人の獲得する新たな“面”の一つに過ぎず、その人自身の本来の価値や重量とは無関係なのに、それを得ると幸福になれると錯覚させられているからである。

 

 

そしてそれこそが、自己実現の落とし穴であり、善いものと見なされがちな、自己実現のマイナス面、もっと言うならば、暗黒面だろう。

 

何故なら、他人との関わり合いでしか自分の重量を実感できない人という存在は、キラキラした自己実現を身にまとってないと、他人から必要とされていないとすぐ錯覚してしまうからである。

 

 

自己実現と自己表現の違い
 

そんな百害あって一理なしの「自己実現」なんて、みんな忘れてしまえば良いと思う。

 

もっともっと大事なのは、自分らしく生きられるための、“自己表現”だからである。

 

 

 

では、“自己表現”とは何か?

 

 

ひと言でいうなら、創作そのものだろう。

 

創作することで得られるものは、単に消費者として日々過ごすのと違った、「生きる力」を得られることにあると感じる。


それは、“心を耕す”という、忙しいと忘れてしまいがちな大事なことを、無駄なように見えて、実は一番効率よく叶えてもくれるからだ。

 

 

与えられたものをただ受け取る(消費)だけではなく、自ら生み出す(創作)ことで得られるよろこびは、何にも代えがたいと言えるのである。

 

 

コトバンクによると、創作の定義は文学や絵画といった、主にアート関連のこととなるが、ここはちょっと強引に、あらゆる自らつくり出せるものとしよう。


野菜作りだってそうだし、最高にうまい料理が作れた時のよろこびも格別なものだ。

 


そして自分にとっては、こうして自分オリジナルの文章を書けることが、最も純粋なよろこびを感じれるということになる。

 


それは多分、野菜作りも文章書くのも根っこの部分は一緒。

 

ショーン・コネリーの「小説家を見つけたら」という映画で、老小説家役の彼が、「自分のために書く文章は、他人のために書くそれに優る」というセリフがあったけれど、まさに箴言であり、誰でも何かしら創作したら感じ取れるものはあると思う。

 

 

もちろん、創作活動自体が“承認欲求”の発露そのものな一面はあるものの、創作物は例えるなら「セーブポイント」みたいなものと思える。

 

つまり、たとえ自分に手応えがなく、自分の重さそのものが感じ取れなくなった時でも、100%の“自己表現”でつくりあげた創作物は、いつでもその時の想いなんかを、鮮明に思い出させてもくれるからである。

 

その点、与えられたものだと、何の役にも立たない。

 

 

いや、創作物でなくてもいい。大事なのはそれこそモノではなく、たとえば家族や友人そのものだという人だっているだろう。

それが依存でないならば、自分を取り戻す立派な「セーブポイント」となる。

 

 

自分の場合、思春期に海外を経験したことで、生き辛く苦しんでいた日本に、「外側の世界」があることを“発見”したことが最初だった。

 

そして、ニュージーランドで暮らした9年間で、サバイバルゲームのプレイヤーとして、南島で一番ユニークな存在として有名となり、英語で電子出版もできた。

心理学的サバゲー戦術論日本語版仮 - 海外でサバゲをやってみた Ninja St☮g plays Airsoft in the world

 

それは“自己表現”の確かな記憶と共に、大事な「セーブポイント」となっている。

 

そういったものを、心の中にたった一つでも持っているかどうかでも、何かがあった時は大きな違いとなる。

 

たとえ自分を見失ったり、たとえゲームオーバーだと思ったとしても、その「セーブポイント」に戻ってくればいいのだから。

 

 

 

 

そうした、「かけがえのない自分」を持った時、ようやく他人に“消費”も“左右”もされない自分を手に入れるのだろうし、他人を本当に受け入れる余裕も出来るものだろう。

 

 

その上で、誰かとお互いを認め合うことが出来れば、それはとても得難いものであるし、幸運なことだ。

 

 

人の一生の内で、いったい何人の人と本当の意味で出会い、手を繋ぎ合えるか考えると、結婚する人とだってそれが錯覚であることも多分に起こり得るのだ。

 

最後に、尾崎豊の名曲「シェリー」の歌詞にうつろう、尾崎ならではの「自己実現」と“自己表現”の狭間での迷いについて、私見に過ぎないが触れてみよう。

 

尚、JASRAC管理楽曲の歌詞掲載が認められているブログサービスにこのはてなブログも含まれているため、著作権的なチョメチョメは心配ご無用である。

https://www.jasrac.or.jp/smt/news/20/ugc.html

 

 

シェリー』

歌:尾崎豊

作詞:尾崎豊

作曲:尾崎豊

 

シェリー 俺は転がり続けてこんなとこにたどりついた
シェリー 俺はあせりすぎたのか むやみに何もかも捨てちまったけれど
シェリー あの頃は夢だった 夢のために生きてきた俺だけど
シェリー おまえの言うとおり 金か夢かわからない暮しさ

転がり続ける 俺の生きざまを
時には無様なかっこうでささえてる

シェリー 優しく俺をしかってくれ
そして強く抱きしめておくれ
おまえの愛が すべてを包むから

シェリー いつになれば 俺は這い上がれるだろう
シェリー どこに行けば 俺はたどりつけるだろう
シェリー 俺は歌う 愛すべきものすべてに

 

シェリー 見知らぬところで 人に出会ったら どうすりゃいいかい
シェリー 俺ははぐれ者だから おまえみたいにうまく笑えやしない
シェリー 夢を求めるならば 孤独すら恐れやしないよね
シェリー ひとりで生きるなら 涙なんか見せちゃいけないよね

転がり続ける 俺の生きざまを
時には涙をこらえてささえてる

シェリー あわれみなど 受けたくはない
俺は負け犬なんかじゃないから
俺は真実へと歩いて行く

 

シェリー 俺はうまく歌えているか
俺はうまく笑えているか
俺の笑顔は卑屈じゃないかい
俺は誤解されてはいないかい
俺はまだ馬鹿と呼ばれているか
俺はまだまだ恨まれているか
俺に愛される資格はあるか
俺は決してまちがっていないか
俺は真実へと歩いているかい

シェリー いつになれば 俺は這い上がれるだろう
シェリー どこに行けば 俺はたどりつけるだろう
シェリー 俺は歌う愛すべきものすべてに

シェリーいつになれば 俺は這い上がれるだろう
シェリー どこに行けば 俺はたどりつけるだろう
シェリー 俺は歌う 愛すべきものすべてに

 

いかがだろう。シェリーの歌詞を自分なりに色分けしてみたのだが、9割近い青色の部分の歌詞は、一度は成功して「自己実現」したものの、何もかも失ってしまったネガティブな感情が根本にある。

 

対して赤色は、まるでパンドラの箱に最後に残っていた希望のように、『真実へと向かって歌い続ける』ことが、尾崎に出来る唯一のことであったことが窺える。

そして、そのシンプルな“自己表現”こそが、ドン底だった尾崎に立ち上がる力を与え、こうして永遠に歌い継がれるであろう「シェリー」という楽曲として実を結んだ。

 

改めてみてみると、ほぼ全てネガティブな歌詞ながら、「シェリー」にこんなに心を揺さぶられ、同時に、こんなにも力を貰えるのはどういうことなんだろう。

 

まだまだ尾崎豊には、単なる歌手ではない未知の可能性があるような気がする。

 

さてここからは、「ルックバック」を読む前からずっと書き進めていた自分史みたいなもので、とりとめのない自分語りなので、違和感のある人はここで読むのをやめてもらっても一向にかまいません。自分にとって備忘録みたいなものです。

 

 

 

 

尾崎豊研究会の思い出
 

自分の中で、創作が与えてくれた力の原体験みたいなのがある。社会人になって二年目くらいの出来事だった。

 

 

当時、下関のちんまりした公立大学を“五年”掛けて卒業し、地元岡山の町の商工会で働き始めていた。

 

商工会は商工会議所の小さい版で、商工業の手伝いをする準公務員となる。繁忙期以外はほぼ九時五時の仕事で、まあ言ってみれば気楽な公務員業務だった。

 

商工関連のことは何でもやる仕事だったので、祭りでは虎の着ぐるみを着て、子どもに蹴られたり、婦人部担当だったので、調整に気を使ったりと、細かい気苦労はそれなりにあった。

が、決して嫌いな仕事ではなかった。

 

メインである経理の仕事も、自分一人で数字の世界に没入していって、その流れや原理が見えてくると、とても魅力的に感じれた。


給料は多くはなかったけれど、二年で辞めてしまうには、楽しいことも多かったし、今考えるともったいない職場環境だったと思う。

 

なんなら、地元以外に住んだこともなく、生まれ育ったその地域で結婚し子育てをし、そして何の疑問も抱かず死んでいくことは、農耕民族としての日本人のDNAに、最も馴染んだ生き方かもしれないと感じる。

自分も、当然のように地元に帰って就職し、働き始めた。

 


しかし、いつの頃からか、そこに自分の未来はないと感じるようになった。

 

学生の時に体感した、海外という「外側の世界」への憧れが段々と大きくなったこともあるが、直接的な理由の一つに、上司がみんな仕事が出来過ぎて、自分はそこまで必要とされる存在にはなれないと挫折したことも大きい。

 

何かしら、自分にしか出来ないことを見つけたかった。青臭いが、自分自身に手応えを感じたかったのだ。

 

おそらくそれは、高校の時に初めて海外へ行って強く感じた、「自分の言葉を得たい」という、“自己表現(自己実現ではなく)”の欲求が、解消されないまま燻っていたからでもある。

 


そんな当時、ひょんなキッカケから、岡山県立大学の児玉助教授が主宰の、尾崎豊研究会に顔を出し始めた。

 

歌手尾崎豊の功績を、主に教育の視点から研究してみようという、ゼミやサークルのような同好会で、教育シンポジウム主催やラジオ出演の他、出版もしたりしていた。


左翼や宗教とかの変なヒモ付けもなく、とてもオープンな議論や話し合いの場が心地よかった。


関係のあった孤児院に慰問に行ったこともあった。その時の出来事が、創作そのものが自分に与えてくれる力を感じた原体験となっている。

 

 

成りゆきから慰問の責任者にされてしまっていたものの、なんと前日までほとんど形にはなっていなかった。

 

プログラムは出来上がっていて、ヤマハから寄贈された電子ピアノを、寸劇でプレゼントするというものだった。

 


劇とは言っても、ナレーション以外はほぼ自分の一人芝居で、手元には安物の怪獣ブースカのかぶりものしかなかった。

 

しかし、劇なんか小学校以来やったことなんてなく、人前でしゃべるのも苦手だった。いや今でも苦手か。

 

先生や他の研究会メンバーとも何度も話し合ってはいたものの、何しろシナリオが出来ないことには話にならない。

 

そして、夏休みの宿題が八月末になるまで山積みだったタイプの自分は、ギリギリにならないとやる気が出ないという、典型的なスロースターターだったのである。


この時も、前日になってようやく火がつき、ほぼ徹夜でやっとシナリオを書き上げた。

 

 

 

当日、岡山市内の山の上にある孤児院で打ち合わせとリハーサルを済ませる。

 

が、子どもがよろこんでくれるかは自信がなかったし、自分にとって初めてとなる孤児院という場所で、どう振る舞うのが正しいのか、戸惑いがあった。偽善なのかという葛藤があったのだ。

 


でもそれは、最初の児童との出会いで、見事に打ち砕かれることとなった。

 

渡り廊下ですれ違った自分に、小学校3年生くらいの児童たちが、底抜けに明るく挨拶をしてきたのだ。

 


その瞬間、心の底を打ち抜かれたような錯覚に襲われた。知らず知らず、壁を作っていたのは自分の方だったのだ。

しどろもどろになりながらも、こっちも元気よく返事を返す。

 

 

何というか、その瞬間から目の前の子どもたちを楽しませることに、ただ集中出来た。

 


すねて外に出ていった怪獣ブースカを、子どもたちの声掛けで呼び戻すシナリオだったか。

プリキュアの映画とかでは、スクリーンに向かって児童が応援するのが定番らしいが、そんなものもなかった時代に、よく思い付いたと思う。あ、いや、仮面ライダーショーとかではあったのかな。


まあとにかく、頑張った甲斐あって予想以上に盛り上がり、最後は先生の尾崎豊の曲の演奏で締めくくり、無事に贈呈式も終わった。

 


途中で、さすがに馬鹿らしいと思ったのか、高学年のお兄さんで出ていく子もいたが、ブースカのかぶりものをとって迎えに行くと、何も言わず帰ってきてくれた。

 

 

この時の実体験が、自分の生み出したもので、他人をよろこばせることが出来ることを知った、身体に雷が落ちたほどの忘れられない経験であり、今でも心の糧となっている。

0から1を創り出すことは、とても骨が折れることだけれど、確実にその人の血肉となるのだ。

 


またその後、研究会でまとめたメンバーそれぞれの尾崎論文の出版の時は、一晩で、何万字もの複数の論文やエッセイを仕上げることが出来た。

 


あれは今思い出しても不思議な感覚だった。
それまで、まとまった量の文章を書くことはなかったのが、まるで自分が自分ではなくなったように、いくらでも構想が浮かび、必死で文字化していくような、途轍もなく充実した時間だった。


没頭できることは他にもあるが、創作する瞬間の集中は、比べるものがあまりないように思う。

 

 


イジメっ子が背負う業
 

ということで、25歳の時に書いた、自分の原点であり、核ともなっている「尾崎豊論」を備忘録としても残しておこうと思う。


自己嫌悪と自己否定の違いについての一文は、今読んでも中々面白い着眼点だった。

 

久しぶりに読み返してみて、未熟な文章で、しかもそれがいつ、誰に伝わるのかも分からないものの、その日“自己表現”できたよろこびは、ありありと思い出すことが出来る。

 


自分の場合は、小学校時代に受けたイジメから、“自己表現”することに大きな枷を掛けられたままだったのだ。

自分だけハンデを背負ったつもりでいたが、“業(カルマ)”の観点からすると、それは必ずしもマイナスではないことに気づいた。

 

簡単に自分を肯定できない代わりに、様々な角度や目線からものごとを見る習慣がついた。

 

傾いた、バランスの悪い自分を自覚することも、表現者には必要なはずである。

 

自らの傾きを自覚し得ない個性なぞ、壊れた人間がただ壊れているだけの寒々しい景色でしかないからである(これは二十年以上前の自分の文章より引用。原文ママ)

 


しかし一方、気にいらないといって他人を簡単に否定してしまう強者は、きっと簡単に様々なものを手に入れたからの反動に、いつか向き合うこととなるだろう。


小山田圭吾の例を持ち出すまでもなく、業とはそういうものだ。プラスもマイナスも、報いは必ず受けるものだからだ。

 

 


最後に、このエントリの冒頭に戻るのだが、「自己実現」は、やはり他人というか、世間一般のモノサシが、無意識の内に意識された言葉だと感じる。

 


自己実現」を果たした後に、それによって他者の称賛や、何らかの報酬を期待している空気感があるウサンクササも、それを増幅している。


対して、“自己表現”は、自分の納得のいく表現が達成された時点で、自己内で完結するものだ。

 

 

例えが間違っているかもしれないが、タイタニックの楽団が、演奏しながら船と運命を共にしたのも、それが「自己実現」ではなく、究極の“自己表現”であったからのように感じる。

 

一字しか違わないが、その差は大きい。

 


経験者は誰でも知っていることと思うが、オリジナルのものをつくれたこと、つまり“自己表現”から得られる愉悦は、消費することで得られる悦楽などとは比べものにならない。

 

それに触れる度に、自分の芯に存在するものを思い出させてくれ、励ましてもくれるものだからだ。

 


その点、他人の評価でどうとでも左右されがちな「自己実現」とは、重なる部分はあっても、やはり根本的には異なるもののように思われる。

 

 

 

 

尾崎豊研究会発表論文(2000年出版)


『尾崎の一つの可能性』
自己否定と自己嫌悪の深層心理をライトとして


一、今なぜ尾崎なのか

八〇年代、尾崎は反逆のシンボルでしかなかった。しかし彼の死後八年の時が流れ二十一世紀に入っても、尾崎は色褪せることなく何かを訴え掛けてきている。彼が今なお若者の心をとらえ、多くの人々の心を揺さぶり続けるのは何故か考えてみたい。


ニ、否定することと嫌いになることの違い
この二つの違いをまず強調したいのは、とりもなおさずこの二つの言葉が混同されがちのように思われるからである。

 

そして尾崎を知る上で把握しておくべき点と感じたから最初の問い掛けとして挙げておくことにした。


ではその違いは何かといえば、それは一言で表すなら「思考停上をするかしないかの違い」ということになる。


嫌いになることは理由付けが必要なのに対し、 否定にはその先がない。

 

例えば否定を端的に表した「ダサい」という言葉があるが、この言葉には「無条件」に相手を自分より下に組み敷くことで安心できるという、心のバランスをとるための防衛機制が働いている。


この “無条件”という点が大事な所で、そうすることでもう相手の存在によって、心を乱される心配がなくなるのだ。

 

 

が、一方言われた側にとって無条件に否定されることは、自覚できなくとも確実に心にダメージを受けることになる。自分の心を“ゴミ捨て場”にされたからである。

 


心の防衛機制は誰しも自分の存在の確かな現実感を感じるために必要なもので、他人にそれを揺るがされることは本能的に人は避ける。中には人を傷つけることでしか心のバランスをとれない人もいる。

 


この場合、自分を守る自己保全のため先に「思考停止」した方が強者となり、否定される側は一方的に心の排泄物を押し付けられた形になる。

 


それは痛みとなって否定された者の心に突き刺さる。たとえそこに悪意はなかったとしても、無条件に否定されるということは、全人格を否定されることに等しい。

 


暴力というものは、常に受け止める側によってそれと判断されるものなのだ。

 

 

 

余談だが、イジメの根本にある上下関係のヒエラルキーには、否定することでいじめる側にとっていじめられる側は絶対的に下でしかないという強者の驕りが見て取れる。

 


否定することは実に簡単なことなのだ。 相手を認めなければそれで済むのだから。


そこに存在するのは「思考停止」 つまりは相手の痛みに対する圧倒的な無関心でしかない。 否定する側にとって否定される側のことなどどうでもいいことなのだ。


そして、 残るのは得ることも失うこともない希薄な人間関族である。

 

 

が、否定することと嫌いになることの違いが、致命的な違いとして現れる状況が存在する。

 

それはそれらが自分に向けられた時である。

 

 


三、自己否定と自己嫌悪の違い

 

否定の怖さは実はその思考停止の便利さにある。無条件に相手を自分の下に組み敷けたその便利さが一度自分に向けられた時、大きな矛盾としてのしかかって来ることになるのだ。

 

 

今まで組み敷くことで“安心”してこれた構図が根底から揺らぐことになるからだ。
人は誰も自分の心を最終的なゴミ捨て場にすることには耐えられない。

 

 

その時、自分の何を信じることが出来るだろうか。おそらく人としてのバランスをとることさえ危くなってくるのではないだろうか。

 


何故なら自分で自分を否定した場合 「自分は何物だ?」という己の存在への問い掛けに、何ら有効な答えを、自らの中に見出し得ないはずだから。

 

 

 

では、自己否定と自己嫌悪の違いは何かといえば、“存在”の概念を哲学で突き詰めていった人、ハイデガーによって興味深い指摘がある。

 

彼は、嫌いになることは自分の存在と対比し、よりよい自分に向かう心の働きであると考えている。

 


一方で否定は、その対比するものの希薄さにより、目の前の希望に向かうからこその存在に、プラスになることはないと言っている。

 

 


つまるところ、自己嫌悪はモチベーションになり得るが、 自己否定で終わってしまっては何も得られないということなのだ。

 

今の世の中、そして若者の心の闇はその一見ささいな、 しかし重大な違いにひとつは根差しているように思われる。

 

 


四、尾崎は自分を否定しなかった

 

尾崎は全面的に自分を好きではなかった。むしろ嫌いであったと思われる。


その理由が単純なものではないからこそ誰よりも深い苦悩を抱えていた。

 

 

しかし、自分をただ否定したりはしなかったはずである。

 

別の言い方をすれば、否定を結論にはしなかったということだ。答えを捜し求めつづけた彼は、否定は決して答えにはならないことを直感的に気付いていたに違いないのだ。

 

 

 

彼は「存在」のなかで、自分らしさに打ちのめされてもあるがままを受け止めようと歌っている。


Exislence (存在)のExには狭い自我を出て、本来の自己に向かう意がある。自分を否定しそうになりながら、自己嫌悪の闇に取りこまれそうになりながら、その結論に辿りついた所に、尾崎の強さと、人としての輝きがあるように思われるのだ。

 

 


五、尾崎の歌の力、そして可能性

 

否定することで思考停止してしまうのは、結局弱い自分を守るためである。しかし自分を否定したら自分は守れない。

 


だから自分を嫌いになることはあっても、 自分を否定してしまってはいけない。

 


否定からは何もプラスのものは生まれはしない。語弊はあるが、むしろ自分を嫌いになることをすすめたい。何故なら自己嫌悪に陥る心の働きこそ、よりよくありたいと願う健康な心を持つ証であるから。

 

 


決して万人受けするものではないが、尾崎の歌には言葉だけでは伝わらないものを伝える力がある。言葉だけでは反発さえ買ってしまいかねないことでも、尾崎の歌は人の心の不可侵領域すら包み込み、溶かしていく。

 

 


幸運な人は、そこで尾崎と向き合い、自分の本当の姿と向き合う。 尾崎を通して。そして心を揺さぶられ、今のままの自分でいいのかという疑問を持った時、人は変わるための動機を手に入れるのだと思う。

 

 

 

その内省することで人として成長することを、強要ではなく自然な心の働きとして、 特に若者に促がせられることこそ、尾崎の歌の力であり、これから伝えていくべき一つの尾崎の可能性ではないだろうか。

 

 

 

 

『自己嫌悪と自己否定についての追想

 

自分さえ否定してしまう者は、何者も肯定することは出来ない。しかし、自分すら否定したこともない者もまた、何者をもほんとうに肯定することは出来ないのではないだろうか。

 


ヘーゲルは「精神現象学」で「人間が真理を突き詰めていこうとするとどうしても『自分の否定』になってしまう。 これはとても受け止めがたいことだが、それをしなければ真理の追求はできない」ということを言っている。

 


弁証法 は“正”でもななく“非”でもないところにある、“合”を 追求していくことに意義がある。やはり否定で終わってしまってはならないということなのだ。

 

 

 

 

『自由と絆 尾崎豊が追及したもの』

 

今教育の場でも家庭でも、そして社会全体も大きな問題を抱えて、皆何処へ向かうべきかわかりかねている状況だと思います。

 

それは同時に自分の価値の拠り所になる、それまで機能していた基準が無力化し、自分の価値を自分で確かめなければならない時代になったということだとも考えられます。

 

 

特に今の時代は子どもにとって大変生きづらい時代と言えます。大人達は誰も子ども達の真の苦しみ、つまり「自分の生きる価値」にまともに向き合おうとしていません。


何故なら大人もまた「自分の生きる価値」についての危機には目を向けようとしないからです。

 


そうした中、子ども達はますます自分の存在の不確かさばかりが増し、ある者はキレ、 ある者は不登校になったりしています。


そこでは豊かになった現在、失ってしまった大切な何かを取り戻すことが重要であることを感じさせます。

 

 

 

では、その失ってしまった大切なものとは何でしょう。実はそこにこそ尾崎が今なお影響力を持ち続けている秘密があります。

 

一般的な尾崎のイメージでは「自由を求め続けた」といわれています。 しかし、それと相反するようなものも彼は追求しています。

 

 

例えば、「ロックンロールは人間と人間との絆の意味を模索する、一つの表現方法なんだ」という言葉は、彼が“絆”という、“自由”と対立するようなものを、どれだけ大事にしていたかの表れです。

 

彼は歌を通してどれだけ多くの人と繋がれるか、絆を持てるかということを追求していたのです。

 

 

“絆”はある意味では“鎖” です。それは自由にとって重りにもなり得ますが、人と人を繋ぎとめておく手段になる。

 

 

自分の存在に繋がるものの希薄さから、自分の確かな手応えをつかめず、人としてのバランスを崩してしまうのが今の時代の風潮ではないでしょうか。

 


しかし、しっかりした絆さえ持っていたら、心が壊れてしまうはずはないのです。

 

 

 

失ってしまっていた大切なものとは、絆に他ならなかったのです。

 

 

そして、尾崎が今なお影響力を持ち続けているのは、尾崎の歌を聴き尾崎と出会うことによって、尾崎との絆をまず実感できるようになるからなのです。

 

 

尾崎の歌は、彼がぎりぎりの所まで自分を追い込んで作られたものばかりです。そのため、同じくぎりぎりの所まで考えたことのある人の心に届きます。

 

 

それは理屈ではありません。心の感度の高い人は、瞬時にそれが嘘であるかどうかを見抜くことが出来るのです。

 

 

そして、尾崎が自分のような深い苦悩を抱えていたことを知った時、自分一人で苦しんでいた世界から一歩前進することが出来るのです。

 

 


つまりその尾崎を理解するというのではなく、尾崎に理解してもらえるという感覚が一の“絆”となっているのです。

 

 


またこの構図は尾崎に限らず、HIDE等のカリスマ的な存在には多かれ少なかれ見られるものです。しかし、殊、尾崎に関して他の歌手とまったく異なる点があります。

 

 

 

それは簡単には自分を肯定してはくれないという点です。 ただ単に背中を押してほしいだけなら、他にいくらでも歌手はいます。

 


いや、歌手に限らず信頼を置けるものだったら何だってあるでしょう。それこそ宗教であっても、当人にとって価値のあるものなら、人は全面的にそれを受け入れることで肯定してもらおうとします。

 

 

 

肝心なのは興味あるものしかその人の心に入ってこないということです。そして人がそういう行動をとる背景には、それがその人にとって心地よい自己肯定感を得るためという事情があるのです。

 

 

しかし尾崎に興味を持った人でも尾崎は簡単には苦しみから解放してくれません。

 

尾崎は言っています。「まず自分と戦え」と。「鉄を食え。飢えた狼よ」と。

 

 

尾崎は誰のせいにもしていません。「卒業」 で反抗しながらも「俺達の怒りどこへ向かうべきなのか」 と歌っているのも、「存在」で「背中合わせの裏切りに打ちのめされても それでもいい」と歌っているのも、同じく心をズタズタにされるような状況に陥っているにもかかわらず、誰も責めてはいません。

 

 

しかしそれでもすべてを背負って生きていこうとしているのです。「愛してる。他に何が出来るの」と、なお愛そうと、与えようとしているのです。

 

 

誰にでも出来る生き方ではありません。そして愛を受け取る側にとっても、尾崎の愛は重いのです。何故なら尾崎を知っていくことは、 尾崎の苦しみを知っていくことに等しいからです。

 

 

だから尾崎を知れば知るほど自分の姿を知ることとなり、 自分を揺さぶられるのです。

 

 

 

そこから始まる自分との戦いはしかし、尾崎がそばで一緒に戦ってくれているという絆を感じれる点で、今までのそれとはまったく異なるのです。

 

 

 


『尾崎と業について思うこと』

 

----背負うもの背負わされるもの----

 

“業”という言葉がある。サンスクリット語で「行為」 を意味し、未来に報い(果)を引き起こす因となる善悪の行い、とされている。

 

 

最近よく、業的に見たら結構みんな平等なんじゃないか、と思うことがある。

 

つまりカルマ (行為) という視点で見ると、結局みんな自分に返ってくるものだし、それに気付くとしても気付かないとしても、トータルじゃそれぞれ相応のものを得るか失ってるかしているように感じる。

 

 

例えは悪いが、世間を以前よく騒がせていた、身体を売ることで金を手にし、「だれが迷惑するの」と言ってみせる援交少女も、 金を得ることで変わってしまったもの、失っ てしまったものにいつか気付く時が来るだろう。

 

 

 

もちろん因果応報という言葉は悪い意味ばかりではない。


が、しかし哀しいことに人はそうやって葉を積んでいくものなのだろう。

 

 

この“業”について誰よりも、少なくともどの歌手よりも深くコミットしたのが尾崎じゃないかなと思う。尾崎は自分の背負わされているものについて誰よりも深く苦悩し、にもかかわらず自らそれを背負っていった。

 

 

 

 

『誰もが目をそむける汚いものそれを見ていたい』

 

尾崎はそういう言葉で自分の精神の汚物から目をそらさないことを語った。

 

 

「生きること それは日々を告白していくことだろう」という彼の言葉は、背負った“罪”と“業”を意識できるか、という尾崎の問いかけのように聞こえるのだ。

 

 

同時にそれは業の克服のための闘いに、自覚的に尾崎が身を投じたことを感じさせる。

 


自由を追い求めていった尾崎は業からも自由になってみせること、最も容易な らざるそれが本当に自由になることだと思ったように僕は感じてならないのだ。

 

 

 

『人を自分の鏡とすること』

 

「人を自分の鎖とすること」

尾崎のその言葉は、尾崎をカガミにすることで初めて自分の姿を認識した人にも確実に変わるキッカケを与える。

 

それを知っていくことは時に苦しみでも ある。己の酸い部分や心の闇に向き合わなければならないから。

 

 

しかし、生きる意味、本当のやさしさとは何かを求めることは、今の時代最も困難なことで、かつ最も大切なことであるはずだ。

 

 

人はもう自分が傷ついてきた本当の意味(理由ではなく)、に気づかなくてはならないのだろう。 そしてその上で新しい人間関係を模索する必要に迫られているのではないだろうか。

 

 

 

 

『尾崎の真髄』

 

尾崎の真髄、それは彼を偲んでファンが集まった時にこそ現れる。それまで面識のないファン同士が心を一つにして尾崎の歌を歌う時、そこには尾崎が求めてやまなかった人と人との愛が満ちていると感じるから。


だから、その確かに分かち合えたと思える至福の瞬間は尾崎からのプレゼントなんだろう。

 

求めるのでも与えるでもない、ただ心を重ね合わせること。互いを貴重に感じ自分も貴重に感じること。分け合ったの に満たされ解放されたような感覚。家族の絆でも難しいその瞬間を、錯覚かもしれないにしろ共有することが出来る。それは理屈を超えたすごいことなんだと思う。

 

 

 


『尾崎の求めた世界、人間関係』

 

尾崎が求め続けていた世界は、 自分一人さえ幸せになればそれでいいという世界ではない。


でも尾崎はみんなの幸せを願いながら本当に分かち合える人を見つけることが出来ず、 命を枯らしてしまった。

 

それを思う時、残されたファンにとって尾崎にできる最大の恩返しは、尾崎の求めた世界を、ファンである自分たちが手を繋ぎ合わせることで、一人づつでも実現していくことなんだと思う。

 


僕は自分の居場所いるべき場所を求めて生きてきた。 本当の意味で尾崎を知ることができたのは一番苦しかった時ではなかったけど、自分の生きることに苦しんできた生き方は決して間違ったものじゃない。

 


たとえ間違っていたとしても、無駄なものじゃないと認めてくれたような気がする。 尾崎ほんとにありがとう。僕はもう自分の価値なんかで迷わない。

 

 

 

『年表資料』1998年

 

第一回尾崎豊研究会ミニシンポジウムレジメ "Live confession"

 

今回から始まるこの企画はメンバー自ら考え発表する点で、これまでのシンポジウムとは性格を異にしています。

 

個人の持つプリミティブな部分が露わになるカラオケを、 尾崎の残した言葉「生きること それは日々を告白していくこと」を実現していく場として捉え、それぞれのもつ尾崎を持ち寄って共有することで尾崎を知る手がかりとし、 尾崎の可能性を皆で探ろうというのが主旨です。


内容としては発表し話し合うことが中心となり、最終的に研究会誌か、あるいは発展性のある資料としてまとめる事を目標としています。


各自が持ち寄る尾崎なので、尾崎に結びっくことなら何でも話題になります。尾崎が影響を受けた歌手、八〇年代のライフスタイル、最近の歌との対比など様々考えられます。

 

 

そして “Live confession (告白)”のタイトルのように、自分にとっての尾崎を告白し共有することで、尾崎という共通体験が年代を超え、時代を超えて、果たしてどのような普遍的な意味、そして価値を持ち得るのかを検証してみるのも意義あることと思われます。

 

いろんな尾崎を持ち寄って話し合うことで、尾崎の可能性を皆で探しましょう。